周廣
- 周廣は字を克之といい、崑山の人。𢎞治十八年(1505年)の進士で、莆田・吉水二県の知縣を歴任し、正徳年間に治績第一で召されて御史を授けられた。
- 疏で四事を陳べた。その趣旨は次のとおり。三代以前に仏法はなかった。まして喇嘛は釈教でさえ相手にしない。耳に銅環を貫き身に赭色の衣を着け、礼法を破って淫邪を恣にしている。四方の果てに追いやって魑魅を防がせるべきなのに、どうして君側に近づけて群盗の挙兵の口実にさせるのか。
- 昔、禹は舜を戒めて「丹朱のように傲り、慢遊を好んではなりません」と言い、周公は成王を戒めて「商王紂のように迷乱して酒徳に溺れてはなりません」と言った。いまの伶人は慢遊と迷乱を助ける者である。唐の莊宗は伶官と戯れ狎れ、一人の男が夜に叫ぶと慌てて逃げ出した。楽工を追い払い、二度と禁中に籍を置かせないのが、鄭声を放逐するということである。
- 陛下は祖宗の統緒を承けておられるのに、小人どもが媚びを献じて惑わし、三宮に怨みを鎖し、蘭殿にしるしがない。陛下はお年こそ盛んでも、万世の計を思われないのか。中程度の者でも少し資産があれば妾を置いて嗣を図る。養子ばかり養って祖宗の後嗣を顧みない者はいない。義子の錢寧はもと宦官の下男で、寵は行き過ぎているのに、さらに財貨を奪い取り、王章を軽んじ、はなはだしくは人に名刺を差し出して自ら「皇庶子」と称する。僭越の罪は口にするに忍びない。陛下はなぜ宗室の賢い者を慎んで選び左右に置き、皇嗣の誕生を待たれないのか。諸々の義兄・養子はみなその名爵を奪う。それが佞人を遠ざけるということである。
- 近ごろ両京の言官が大臣の寇を防ぐに職を尽くさぬことを論じても、陛下はおおむね寛大に許され、武将が軍律を失っても赦して誅されない。それゆえ士気は上がらず、功の成る日はなく、川原には白骨が丘のように積もっている。そもそも十萬の師を出せば日に千金を費やす。いま国内は疲弊し、すでに骨が現れ肉が消えている。諸々の統兵の大臣、たとえば陳金・陸完の輩を、のんびりと寇を弄ぶままにさせ厳しく責めずにおいてよいのか。期限を定めて成功を責め、前の罪を贖わせるよう請う。
- 錢寧は疏を見て大いに怒り、留め置いて下さず、旨を伝えて廣東の懐遠驛丞に左遷した。主事の曹琥が救おうとしたが、これも左遷された。錢寧の怒りはやまず、人をやって道で周廣を刺させようとした。周廣はそれを知り、姓名を変え服を改めて四百余里をひそかに行き、ようやく免れた。
- 武定侯郭勛が廣東を鎮守しており、錢寧の意向を承けて白金で周廣を試したが、周廣は拒んで受けなかった。周廣が御史に謁見する隙をうかがって軍門に連行し、鞭打って繋ぎ、危うく死なせるところであったが、御史が救ってようやく解けた。
- 二年を越えて建昌知縣に遷り、恵み深い政があった。錢寧は旨を偽って再び竹寨驛丞に左遷した。
- 世宗が即位してもとの官に復し、江西副使を歴任して学校を提督した。嘉靖二年(1523年)、治績卓越として挙げられ、福建按察使に抜擢された。鎮守中官が百金を贈ったので、周廣はそれを庫に納めて弾劾しようとした。中官は恐れて謝罪し、以来、妨げようとしなかった。
- 嘉靖六年(1527年)、右僉都御史として江西を巡撫した。汚職の吏は風を望んで去った。豪族の田に制限を設けようとしたが果たせなかった。翌年、南京刑部右侍郎に拝され、二年いて急病で卒した。嘉靖末に右都御史を贈られた。
- 周廣ははじめ郷試の挙で太学に入り、章懋に師事し、郷里では魏校と親しかった。生涯、厳しく冷ややかで笑顔がなく、官にあっては公正剛強で請託を受けず、士人でこれを憚らない者はなかった。
曹琥
- 曹琥は字を瑞卿といい、巢の人。𢎞治十八年(1505年)の進士で、南京工部主事を授けられ、户部に改まった。周廣を救う疏を上げると、吏部は河南通判に移そうと立案したが、錢寧が遠くへ追いやろうとしたので尋甸に改まった。
- 再び遷って廣信同知となった。寧王および鎮守の高位の宦官が貢献にことよせてしきりに取り立てたが、曹琥は府の事を代行して固く拒み、与えなかったので、士民はこれを徳とした。鞏昌知府に抜擢されたが、着任せずに卒した。嘉靖の初め、光禄卿を贈られた。