戴銑
- 戴銑は字を寳之といい、婺源の人。𢎞治九年(1496年)の進士で、庶吉士に改まり、兵科給事中を授けられた。しばしば建言があった。久しくして、親の養育に便利なようにと南京户科に移った。
- 武宗が位を継ぐと、同官とともに、六科に𢎞治年間に行われた、賢を進め奸を退け、財を節し兵を訓え、祀を重んじ刑を慎み、災を救い困を恤む諸大政を詳しく調べさせ、余さず記録して上覧に供し、機務を裁決するときはすべてこれを基準とするよう詔を請うた。返答は「聞き置く」であった。
- 一月余りして、四方の年ごとの調達品にはその土地の産物でないものが多く、労費がはなはだしいとして、産しないものは免ずるよう述べた。また経筵に勤めて出御し、機密に与る大臣がゆったりと献言できるようにと請うた。
- やがて給事中の李光翰・徐蕃・牧相・任惠・徐暹および御史の薄彦徽らとともに章を連ねて劉健・謝遷の留任を奏し、あわせて中官の髙鳯を弾劾した。帝は怒って詔獄に逮え繋ぎ、廷杖して除名した。戴銑は傷が重くついに卒した。世宗が立って光禄少卿を追贈された。
李光翰・徐蕃・牧相・任惠・徐暹
- 李光翰は新鄉の人。𢎞治十二年(1499年)の進士で、南京户科給事中を授けられた。正徳の改元にあたり災異により言を求められ、同官とともに疏で太監の苗逵・髙鳯・李榮および保國公朱暉を弾劾し、あわせて「大學士劉健らが塩法について陳べた疏が留め置かれて返答がないのは、老臣をその位に安んじさせないものだ」と述べた。帝は顧みなかった。籍を削られて帰り、のち台州知府に起用され、徐蕃とともに治績卓越として挙げられたが、まもなく卒した。
- 徐蕃は泰州の人。𢎞治六年(1493年)の進士で、南京禮科給事中を授けられた。武宗が位を継いで先朝が汰った諸々の冗費を復したので、徐蕃らが力争したが容れられなかった。のち江西參議に起用され、都御史の陳金に従って東鄉の寇を討ち平らげた。嘉靖のとき累進して工部右侍郎に至った。
- 牧相は餘姚の人。𢎞治十二年(1499年)の進士で、南京兵科給事中を授けられた。宣府の都御史雍泰を論じて救い、また連名の疏で禮部尚書の崔志端らの罷免を請うたが、いずれも聴かれなかった。正徳元年(1506年)、命を受けて御史の吕鏜とともに御馬監を調査し、そのついでに濫役・濫費の弊および太監李棠が詔旨に背いて私利を営んだ罪を陳べた。ここに至って杖を受けて帰り、門人に教えて母を養った。のち官に復し廣西參議に抜擢されたが、命が下ったときには牧相はすでに卒していた。
- 任惠は灤州の人。𢎞治九年(1496年)の進士で、行人から南京吏科給事中に抜擢された。正徳元年(1506年)九月、同官とともに遊興に耽ることを諫め、言葉は切実で率直であった。のち山東僉事に起用されたが、着任せずに卒した。
- 徐暹は厯城の人。𢎞治十五年(1502年)の進士。武宗が即位して南京工科給事中に抜擢された。正徳の改元にあたり災異により七事を上言し、あわせて英國公張懋、尚書の張昇らを斥け、添注の内官をすべて撤し、張瑜・劉文泰が薬の用い方を誤って先帝を損なった罪、および太監李興が勝手に陵の木を伐った罪、新寧伯譚佑と侍郎の李鐩が同席しながら挙発しなかった罪を明らかに正すよう請うた。帝は所司に下した。のち山西僉事に起用され副使に進み、大盗の混天王を平らげて民はこれを徳とした。官にあって卒した。