明史卷一百八十七 列傳第七十五 洪鍾
洪鍾(字は宣之)は錢塘の人。成化十一年の進士。四川按察使として馬湖の土知府安鼇を極刑に処し、唐以来の世襲を流官に改めさせた。順天巡撫としては山海關から居庸まで千余里の塞垣を築いて城堡二百七十か所を修めたが、潮河川の開削工事では圧死者を出して弾劾された。正徳五年から湖廣・四川の軍務を總制し、沔陽の賊を破り、藍廷瑞・鄢本恕ら二十八人を計略で一挙に捕らえて太子太保に進んだ。のち廖麻子の討伐で統率を弾劾されて召し還され、嘉靖三年に没して襄惠と諡された。
年表(8件)
- 成化十一年1475年進士となり、刑部主事から郎中に遷る
- 𢎞治十一年1498年右副都御史として順天を巡撫し、薊州の塞垣千余里と城堡を修める
- 正徳元年1506年貴州巡撫から召されて漕運を督し、江北の巡撫を兼ねる
- 正徳四年1509年冬、太子少保を加えられ、左都御史を兼ねて院事を掌る
- 正徳五年1510年春、湖廣の軍務を總制し、沔陽の賊楊清・邱仁らを麻穰灘に破る
- 正徳七年1512年廖麻子・曹甫の討伐が渋滞し、統率不行き届きを弾劾されて召し還される
- 嘉靖三年1524年卒する。襄惠と諡される
- 成化二十三年1487年のちに麾下で賊を平らげる陳鎬・蔣昇が同年の進士となる
刑部から四川按察使へ
- 洪鍾は字を宣之といい、錢塘の人。成化十一年(1475年)の進士で、刑部主事となり郎中に遷った。
- 命を受けて江西・福建の流民を安撫し、還って「福建の武平・上杭・清流・永定、江西の安遠・龍南、廣東の程鄉はいずれも流民が入り交じり、争闘に慣れて乱れやすい。平時のうちに有司に郷社学を立てさせ、詩書と礼譲を教えるべきである」と述べた。
- 𢎞治の初め、再び遷って四川按察使となった。馬湖の土知府である安鼇はほしいままに淫虐を行い、土地の人は骨身に沁みて怨んでいたが、有司はその金を貪って不問に付し、二十年も延引していた。僉事の曲銳が巡按御史の張鸞に取り調べを請い、洪鍾がこれを支持して裁決し、安鼇を捕らえて京師に送り極刑に処した。安氏は唐以来、代々馬湖を領していたが、ここに至って流官に改められ、一方はようやく静まった。
- 江西・福建の左右布政使を歴任した。
薊州の辺備と潮河川の工事
- 𢎞治十一年(1498年)、右副都御史に抜擢されて順天を巡撫し、薊州の辺備を整えた。塞垣の増築を建議し、山海關から西北へ密雲・古北口・黄花鎮を経てまっすぐ居庸に至るまで、延べ千余里に及び、城堡二百七十か所を修復し、辺沿いの諸県をすべて城壁で囲んだ。そこで防秋の兵六千人を減らすよう奏し、年に輸送と犒賞の費用数萬を省いた。
- 管内の潮河川は京師から二百里、両山の間にあって幅百余(歩)あり、増水すると大きな湖となるが、水が引くと平坦な陸地となり、寇が長駆して直入できた。洪鍾は「関の東三里ばかりの所は、その山が外側は高く内側は低く、二丈あまりの余裕がある。二筋の渠を掘って水勢を分け殺ぎ、口の外に斜めに石堰を築いて水を束ね、堰の内に関を置いて百人に守らせれば、寇は駆け□(底本欠字)ることができず、京師の北方への憂いを免れ、しかも河岸の地で屯田ができる」と述べた。兵部尚書の馬文升らがこれに従うよう請うた。
- ところが着工して山を掘ると、山の石が崩れて数百人が圧死した。御史の弋福、給事中の馬予聰らが洪鍾と巡撫の張烜らを弾劾し、工事の中止を請うたが聴かれなかった。まもなく工事が完成すると、侍郎の張達が司禮中官とともに視察に行き、還って「石の洞はわずかに小さな水を流すだけで、地は辺垣に近く砂石が多く耕作に適さない」と述べた。給事中の屈伸らが洪鍾の欺瞞三罪を弾劾し、言官と兵部はいずれも洪鍾の逮捕を請うたが、帝は「洪鍾は国のために辺を修繕したのだから罪とすべきでない」として、三か月の俸を停めるにとどめた。
漕運と湖廣・四川の討賊
- 正徳元年(1506年)、貴州の巡撫から召されて漕運を督し、江北の巡撫を兼ねた。翌年、そのまま右都御史に進んだ。
- 蘇州・松江・浙江の運送船は下港口および孟瀆河から大江を遡って𤓰洲に達するのに、二百八十余里もの遠路で、しばしば風濤に遭った。洪鍾は「孟瀆の対岸に夾河があり、白塔河口に至れる。旧来そこに四つの閘が置かれ、四十里で㝠陵鎮に達し、また北へ折れればすぐ揚州の運河に出る。浚渫すれば便利である」と述べ、従われた。
- 南京都察院を掌ることに改まり、そのまま刑部尚書に遷った。正徳四年(1509年)冬、太子少保を加えられ左都御史を兼ねて院事を掌った。
- 正徳五年(1510年)春、湖廣が飢饉で盗賊が起こったので、洪鍾に本官のまま軍務を總制させ、陝西・河南・四川もこれに属させた。沔陽の賊である楊清・邱仁らが天王・将軍を僭称して洞庭のあたりに出没し、岳州を囲み臨湘を陥れ、官軍はたびたび敗れた。洪鍾と總兵官の毛倫は都指揮の潘勲・柴奎、布政使の陳鎬、副使の蔣昇に檄して麻穰灘で撃ち破らせ、七百四十余人を捕斬し、賊は平定された。
- はじめ洪鍾が院事を掌っていたころ、劉瑾の勢いは盛んであった。劉瑾が誅されると、言官は洪鍾が劉瑾に迎合して御史を打った件を弾劾したが、朝議は洪鍾が討賊中であるとして不問に付した。
四川の藍廷瑞・鄢本恕の乱
- 当時、保寧の賊である藍廷瑞は「順天王」を自称し、鄢本恕は「刮地王」を自称し、その一味の廖恵は「掃地王」と称し、衆は十萬余、四十八の総管を置いて陝西・湖廣の境まで蔓延していた。藍廷瑞と廖恵は保寧を拠点にしようと謀り、鄢本恕は漢中を拠点として鄖陽を取り、荊州・襄陽から東下しようと謀った。
- 巡撫の林俊が通江を遮る策を議しているうちに廖恵が到着して城を攻め落とし、參議の黄瓉、僉事の錢朝鳯らを殺して逃げ去った。たまたま官軍が他郡から戻ったので、賊は援軍が来たと疑ってやはり逃げた。
- 林俊はさらに玀□(底本欠字)および石砫の土兵を動員して錢朝鳯を助けて進剿し、參議の公勉仁も会同した。龍灘の河が増水し、賊が半ば渡ったところで玀□が奮って撃ち、八百余人を捕斬し、崖から落ち水に溺れた者もはなはだ多かった。林俊はさらに知府の張敏・何珊らを遣わして追わせ、廖恵を捕らえた。残った衆は陝西の西鄉へ奔った。
- 洪鍾は令を下して招撫し、帰順した者は一萬余に及んだ。ところが賊は散った者を集めて營山を陥れ、僉事の王源を殺し、蓬州・劍州を掠めた。洪鍾は四川に赴いたが、林俊と議が合わず、軍機は互いに掣肘し合って賊はますます盛んになった。
- そこで陝西・湖廣・河南の兵に檄して道を分けて進ませた。湖廣の兵が先に陝西の石泉で追いついた。藍廷瑞は漢中へ走り、都指揮の金冕が包囲した。陝西巡撫の藍章はちょうど漢中に駐屯していた。藍廷瑞は一味の何虎を藍章のもとに遣わして四川に還って招撫に応じたいと乞うた。藍章は、藍廷瑞はもと四川の賊であり、追い詰めれば必死になって陝西が害を被ると考え、金冕に護送させて境外に出した。
- 藍廷瑞は四川に入って降を求めた。洪鍾らは東鄉に来て招撫を受けるよう命じたが、賊の意図は官軍の追撃を緩めることにあり、数か月も引き延ばし、山によって陣営を結び、營山縣あるいは臨江市を屯所として与えるよう要求し、官を人質に遣わした。洪鍾は漢中通判の羅賢をその陣営に入らせ、鄢本恕が来て面会し、約束が定まった。ところが官軍のうちに賊の樵採の者を殺した者があり、賊は再び疑い恐れて羅賢を殺し、従来どおり掠奪した。
- 官軍は七つの塁を作って囲んだので賊は逃げられず、その一味は次第に崩れた。藍廷瑞は掠奪した女子を自分の娘と偽って永順の土舍である彭世麟と縁組し、隙を得て逃げようとした。彭世麟が密かに洪鍾に告げると、洪鍾は方策を授けて計らせた。期日になると藍廷瑞・鄢本恕およびその一味の王金珠ら二十八人がみな来会したところで伏兵が起こり、ことごとく捕らえられた。ただ廖麻子だけが脱れた。その衆は変を聞いて驚き崩れて河を渡ったが、洪鍾が兵を遣わして追撃し、七百余人を捕斬した。功により太子太保に進んだ。
廖麻子・曹甫の乱と召還
- まもなく廖麻子とその一味の曹甫が營山・蓬州を掠めた。正徳七年(1512年)、總兵官の楊宏、副使の張敏、馬昊、何珊らが合わせて撃ち、賊の勢いが窮すると、洪鍾は招撫を議した。張敏が単騎で曹甫の陣営に赴くと曹甫は命を聴き、軍門に赴いて約束を受け、帰ってその一味を解散させた。ところが廖麻子は曹甫が自分に背いたことを憤って殺し、その衆を併せて川東を転戦して掠めた。
- 官軍は敢えて撃たず、ひそかに賊の後をつけて良民の首を斬って功とした。土兵の虐待はとりわけひどく、当時の童謡に「賊は櫛のごとく、軍は篦のごとく、土兵は剃刀のごとし」といわれた。
- 巡按御史の王綸、紀功御史の汪景芳が洪鍾の軍の統率不行き届きを弾劾し、王綸はさらに「洪鍾は酒宴に耽り遊興にふけって、賊が合州から江を渡って州県を陥れるに至った」と奏した。詔で洪鍾は召し還され、彭澤が代わった。洪鍾はそこで帰郷を乞い、嘉靖三年(1524年)に卒、諡は襄惠。
陳鎬・蔣昇
- 陳鎬は㑹稽の人で、成化二十三年(1487年)の進士。賊を平らげたのち、そのまま右副都御史に遷って湖廣を巡撫した。
- 蔣昇は祁陽の人で、陳鎬と同年の進士である。