明史卷一百八十七 列傳第七十五 陸完

陸完(字は全卿)は長洲の人。成化二十三年の進士で、中官王敬を打った件に名を連ねた縁から王恕に御史に推された。宣府巡撫を経て兵部侍郎となり、馬中錫の後を承けて劉六・劉七の追討を指揮した。畿輔・山東・河南から江南まで転戦し、狼山で劉七・齊彦名を討って乱を平定し、太子少保・左都御史に進んで兵部尚書となった。しかし寧王宸濠と通じて護衛と屯田の回復を助けたことが宸濠の敗死後に露見し、斬罪を減じられて福建の靖海衛に流され、その地で没した。

年表(4件)

出自と兵部侍郎への昇進

  • 陸完は字を全卿といい、長洲の人。諸生であったころ、中官の王敬が蘇州に来て事にかこつけて諸生を引き立てたので、諸生が争って立ち上がりこれを打った。陸完は加わらなかったが、陸完を憎む者がこれに引っ掛け、王敬は陸完の名を筆頭に挙げて上聞した。巡撫の王恕が王敬の罪を極論したので、陸完は免れた。
  • 成化二十三年(1487年)の進士に挙げられた。選を受けに行くと、王恕がちょうど吏部にあって「これは宦官を打った者だ。御史にすべきだ」と言った。台諫に入って果たして名声があった。
  • 正徳の初め、江西按察使を歴任した。寧王宸濠は常々これを重んじ、しばしば私的な宴に招き、金の酒器を贈った。
  • 正徳三年(1508年)冬、右僉都御史に抜擢されて宣府を巡撫した。劉瑾は陸完を憎み、闕に赴くのが期日に遅れたとして、試職として事に当たらせた。翌年夏には南京都察院に移して江防の軍を督させた。陸完は、都御史が試職であるのは前例がなく、はなはだ恐れて劉瑾に賄賂を贈り、召されて左僉都御史となった。
  • 正徳五年(1510年)春、兵部侍郎に拝された。劉瑾が敗れると、言者はその党附を弾劾したが、帝は問わなかった。

劉六・劉七の追討(前半)

  • 翌年、霸州の賊である劉六・劉七らが起こり、楊虎を首領に奉じた。惠安伯張偉と右都御史馬中錫は出師して功なく、逮え繋がれて死罪と論じられた。
  • 八月、詔で陸完に右僉都御史を兼ねさせ提督軍務として、京營・宣府・延綏の軍を統べて討たせた。行軍が涿州に及んだとき、突然、賊が京師に迫っていると伝えられ、軍を返して入衛するよう命じられた。
  • たまたま副總兵の許泰、遊撃の郤永らが霸州で楊虎らを破り、賊が南に走ったので、京師はようやく戒厳を解いた。指揮の賀勇らが信安でまた賊を破り、副總兵の馮禎が阜城でこれを大破し、兵を分けて追撃した。賊は東へ滄州を囲んだが、劉六・劉七が流れ矢に当たったので囲みを解いて南下し、山東の県二十を陥れた。楊虎の兵も北へ威縣・新河を荒らした。
  • そこで陸完はしきりに援軍を請い、遼東・山西の諸鎮の兵をさらに動員して賊を追った。賊はますます南へ濟寧を囲み、運送船を焼き、転じて曹州を犯した。馮禎・許泰・郤永が二千余人を撃ち斬り、首魁の朱諒を捕らえた。功を録して陸完は右都御史に進み、諸将はみな秩を加えられた。
  • 中官の谷大用と張忠は、賊が今にも平らぐと見て自ら督師を願い出た。詔で谷大用を總督軍務、伏羌伯毛銳を總兵官、張忠を神鎗の監軍とし、京軍五千人を率いて陸完と会同して討たせた。
  • このとき劉六らは沂州・莒州の間を縦横し、楊虎は宿遷を陥れて淮安知府の劉祥、靈璧知縣の陳伯安を捕らえ、続けて虹・永城・虞城・夏邑および歸徳州を陥れた。辺兵が追いつくと賊は退いて小黄河の波口に至り、百户の夏時が伏兵を置いて迫ったので、楊虎は溺死した。
  • 残った賊は河南へ走り、劉恵を首領に推した。副總兵白玉の軍を大敗させ、沈邱を攻め落として都指揮の王保を殺し、都指揮の潘翀を捕らえ、北へ鹿邑を陥れた。陳翰なる者が寗龍と謀って劉恵を「奉天征討大元帥」に奉じ、趙鐩を副とし、陳翰は自ら「侍謀軍國重務元帥府長史」となり、寗龍とともに東西二廠を立てて事を処理し、その軍を二十八営に分けて二十八宿になぞらえ、各営に都督を置いた。衆は十三萬に達し、官軍を牽制しようとした。
  • こうして劉恵と趙鐩が河南を、劉六と齊彦名らが山東を騒がせ、賊は二手に分かれた。やがて劉六は転じて北へ向かい、郤永が濰縣で破ると、還って霸州へ向かった。帝が郊外に出て犠牲を検分しようとしていたところにこれを聞いて恐れ、急ぎ陸完を召して救援させた。陸完は文安でこれを撃ち破った。賊が南へ湯隂に至ると、陸完はまた諸将を督して追い破り、前後で千人を捕斬した。
  • このころ劉六らの衆は数萬と号したが、多くは脅されて従った者で、精鋭は千余人にすぎなかった。兵部が首級の功を定める令を下してから、官軍が賊を追うと、賊はきまって良民を前に駆り立て、急になると掠奪品を捨てて逃げたので、官軍が殺すのはみな良民であった。それゆえ勝報はたびたび奏されても賊の勢いは衰えなかった。

劉六・劉七の追討(後半)と平定

  • 翌年正月、劉六らが再び霸州に突入し、京師は戒厳となった。詔で陸完と谷大用・毛銳を還らせ近畿を防がせた。賊は西へ博野を掠め、蠡縣・臨城を攻めた。谷大用と毛銳は長垣で賊と遭遇して大敗した。廷議は二人を召し還し、別に都御史の彭澤と咸寧伯仇鉞に河南の賊を担当させ、畿輔と山東の賊を陸完に委ねた。
  • 陸完は郤永を遣わして宋家莊で劉六を追い破らせた。賊が南へ滕縣を犯すと、副總兵の劉暉が大破した。賊は登州・萊州の海套に走った。陸完の軍は平度に至り、郤永・白玉と遊撃の温恭に檄して三道から進攻させ、副總兵の張俊・李鋐および許泰・劉暉には軍を分けて逃走路を遮らせた。賊は走り、連戦してことごとく大敗し、ついに服を変え馬を替えて逃げた。前後で二千六百余人を捕斬した。
  • 賊はわずか三百人となって北へ走ったが、沿道で人を集めて勢いを盛り返し、香河・寳抵・玉田を掠め、転じて武清を攻めた。遊撃の王杲は敗れて没し、巡撫の寗杲の兵も敗れ、畿輔は再び動揺した。しかし賊が南へ転じて冠縣に至ると、劉暉が襲って破り、指揮の張勛がまた平原で破った。
  • 賊は南へ邳州に奔り、河を渡って固始に至った。河南の賊がすでに平定されていたので劉六らの勢いはますます衰え、湖廣へ走り、舟を奪って夏口に至り、都御史の馬炳然に遇ってこれを殺し、再び上陸して漢口を焼いた。指揮の滿弼らが追いつき、劉六は流れ矢に当たって子の仲淮とともに水に飛び込んで死んだ。
  • 劉七と齊彦名は五百人を率いて舟で黄州から流れに従い鎮江に至り、南京が急を告げた。陸完は急ぎ南へ向かい、帝は彭澤・仇鉞に陸完の軍と合流して進剿するよう命じた。大兵がすべて江南北に集まったが、賊はなお潮に乗じて上下し、ほしいままに掠めた。操江の武靖伯趙𢎞澤と都御史の陳世良が遭遇して敗れ、死者は数知れなかった。
  • 七月、賊は孟瀆で舟を修理し、宅らが鎮江に至った。陸完は仇鉞を留めて防がせ、温恭に騎兵で江北に駐屯させ、劉暉と郤永には舟で江隂に向かわせ、自らは都指揮の孫文・傳鎧を率いて福山港に向かった。賊は恐れて通州に至ったが、颶風が激しく吹いたので舟を捨てて狼山に立てこもった。陸完は同知の羅瑋に命じて夜のうちに軍を山に導かせ、南から迫った。齊彦名は槍に当たって死に、劉七も矢に当たって水に飛び込んで死に、残った賊はすべて平定された。
  • 還朝して太子少保・左都御史に進み、子に錦衣衛世襲百户を廕された。

宸濠との交通と失脚

  • 翌年、何鑑に代わって兵部尚書となった。
  • 陸完は才智があり功名を急ぎ、権勢家との交際に巧みだった。劉暉・許泰・江彬はいずれもその部将で、のちにみな寵愛され権を握ったので、陸完はその力を得た。
  • 当時、宸濠はすでに異心を萌していた。陸完が兵部にあると聞いて書を送り、旧交を並べ立てて、護衛と屯田の回復を望んだ。陸完は返書で「祖制を口実にせよ」と教えた。宸濠はそこで人を遣わして巨額の金帛を車で運ばせ、親しい教坊の臧賢の家に置き、権を握る貴人に広く配り、錢寧に内から取り持たせた。奏が下されると陸完はそのまま許可の覆奏をし、屯田は户部に属することとして廷議に付すよう請うた。内閣が旨を起案して上げると、いずれも許された。
  • 朝廷中が騒然となり、六科給事中の高淓、十三道御史の汪賜らが力争した。章はいずれも部に下されたが久しく覆奏されず、南京給事中の徐文溥が続いてこれを言った。陸完はそこで諫官の言を容れるよう請うたが、帝はついに許さなかった。
  • 正徳十年(1515年)、吏部尚書に改まった。宸濠が反いて捕らえられたとき、中官の張永が南昌に至ってその帳簿を捜索し、陸完が日ごろ交通していた証拠を得て上申した。帝は大いに怒り、通州まで還ったところで陸完を捕らえ、その母・妻・子女を収監し、家を封印した。京に還ると陸完を後ろ手に縛り、竿に姓名を掲げて頭上に立て、俘囚に混ぜて凱旋の前部に並べて入城させ、極刑に処そうとした。
  • ちょうど武宗が崩じ、世宗が立った。法司は「外藩と交わりながら贈られた金を却けず、護衛の件を処理するにあたって執奏が堅くなかった」として斬罪と覆奏した。陸完がさらに哀れみを乞うたので、廷臣に覆審させたところ、賊を平らげた功が八議に当たるとして、死一等を減じられ福建の靖海衛に流された。母は九十余であったが、ついに獄中で死んだ。
  • はじめ陸完は、かつて夢で「大武」という山に至ったことがあった。流罪地に着くとその名の山があり、嘆いて「私の流罪はすでに定まっていた。どこへ逃れられよう」と言い、ついに流罪地で卒した。