明史卷一百八十七 列傳第七十五 馬中錫
馬中錫(字は天禄)は故城の人。父の冤を幼くして訴え出て晴らした。成化十一年の進士で、給事中として萬貴妃の弟や汪直を弾劾して二たび杖を受けた。大理少卿・宣府巡撫・遼東巡撫を歴任し、劉瑾に逆らって詔獄と遼東送りを経験した。正徳六年、劉六・劉七の乱に提督軍務として南征したが、賊を良民の激発とみて招撫策を採り、朝廷の増兵と懸賞で賊が疑心を抱いたため成功せず、逆に「自家のために賊を放した」と弾劾されて獄中で死んだ。正徳十一年に冤が認められ、官を復された。
年表(5件)
- 成化十年1474年郷試に第一で挙げられ、翌年に進士となって刑科給事中を授けられる
- 𢎞治五年1492年大理右少卿に召され、蔣琮と婁性の訐き合いを一度の訊問で裁く
- 正徳元年1506年兵部侍郎として朱瀛の偽の辺功を認めず、劉瑾の怒りを買う
- 正徳六年1511年三月、劉六らの蜂起に右都御史・提督軍務として南征する
- 正徳十一年1516年巡按御史盧雍の追訴により官を復され、祭と廕を賜る
出自と初期の官歴
- 馬中錫は字を天禄といい、故城の人。父の偉は唐府長史であったが、直諫して王に逆らい、械につながれて京師に送られ、家人もことごとく縛られた。馬中錫は幼かったので免れ、走って巡按御史に訴えた。御史が王に言って家族を釈放させ、馬中錫は母を奉じて京師に走って冤を訴え、父はついに潔白を明らかにされ、處州知府で終わった。
- 馬中錫は成化十年(1474年)の郷試に第一で挙げられ、翌年に進士となり、刑科給事中を授けられた。萬貴妃の弟の萬通が驕横だったので二たび疏を上げて斥け、二たび杖を受けた。公主が畿内の田を侵したときは調べて民に返させた。また汪直の違法恣意の罪を弾劾した。
- 陝西督學副使を歴任した。𢎞治五年(1492年)、召されて大理右少卿となった。南京守備太監の蔣琮が兵部郎中の婁性、指揮の石文通と訐き合い、数百人が巻き込まれた。官を遣わして調べさせても服さなかったが、馬中錫が司禮太監の趙忠らとともに赴き、一度の訊問で実情を得た。婁性は除名、蔣琮は獄に下されて罪に当てられた。
- 右副都御史に抜擢されて宣府を巡撫した。貪欲で老いぼれた總兵官の馬儀を弾劾して罷め、鎮守以下が私に軍士を使役していたのを改めて、軍籍どおりに属させた。寇が辺を犯したときは軍を督して破った。病と称して帰ったが、中央地方から推薦が相次いだ。
- 武宗が即位すると起用されて遼東を巡撫し、屯田を軍に返し、鎮守太監の朱秀が官営の店を置いて馬市を専断した諸罪を弾劾した。
- 正徳元年(1506年)、入って兵部左右侍郎を歴任した。劉瑾が権を得たばかりのころ、その一味の朱瀛が辺功を偽ること数百人分に及び、尚書の閻仲宇はこれを許したが、馬中錫は不可を主張した。劉瑾は激怒し、中旨で南京工部に移し、翌年には致仕を強いた。その冬には詔獄に逮え繋ぎ、械で遼東に送って、腐った粟の弁償を負わせた。一年余りして事が終わると、民に落とされた。劉瑾が誅されて大同の巡撫に起用された。馬中錫は官にあって清廉で、行く先々で弊を改め怨みを買うのも辞さなかったので、名があった。
劉六・劉七の乱と招撫の失敗
- 正徳六年(1511年)三月、賊の劉六らが起こると、吏部尚書の楊一清が大臣を遣わして諸道の兵を節制させるよう建議し、馬中錫を推薦した。右都御史・提督軍務として、惠安伯張偉とともに禁兵を率いて南征した。
- 劉六は名を寵、その弟の劉七は名を宸といい、文安の人である。ともに剽悍で騎射に巧みであった。もともと有司が盗賊を憂えて劉寵・劉宸およびその仲間の楊虎・齊彦名らを召して捕縛に協力させ、たびたび功があった。ところが劉瑾の家人である梁洪が劉寵らに賄賂を要求して得られず、盗賊だと誣告し、寗杲・桞尚義を遣わして人相書きで捕らえさせ、その家を破った。
- 劉寵らはそこで大盗の張茂に身を投じた。張茂の家は高楼と重層の家屋、二重の壁と深い穴蔵を備え、常々亡命者を招いて逃亡犯の主となっていた。宦官の張忠は張茂と隣同士で兄弟の契りを結び、馬永成・谷大用・于經らの伝手で豹房に出入りし、帝の蹴鞠に侍りながら、隙をみては従来どおり盗みを働いた。
- のち何度か河間參将の袁彪に破られ、張茂は窮して張忠に救いを求めた。張忠は私邸に酒宴を設け、張茂と袁彪を東西に座らせた。酒たけなわとなると、盃を挙げて袁彪に「彦實はわが弟だ。今後は苦しめてくれるな」と言い、また盃を挙げて張茂に「袁公は君によくしてくれる。慎んで河間を犯すな」と言った。袁彪は張忠を恐れて「はい」と言うほかなかった。
- やがて張茂が寗杲に捕らえられると、劉寵らは連れ立って京に上り自首しようとした。張忠と馬永成が帝に願い出て、「必ず一萬金を献じさせたうえで赦す」と言った。劉寵・劉宸はそれを工面できず逃げ去った。
- ほどなく劉瑾が誅され、詔で自首が許されたので、劉寵らは出て官に赴き、兵部は奏して赦し、他の盗賊を捕らえて償わせることにした。しかし劉寵らは束縛を嫌い、まもなく再び叛いた。一味は日ごとに増え、行く先々で城を陥れ将吏を殺した。
- 馬中錫らは命を受けて出師し、彰徳で賊を破り、さらに河間で破って左都御史に進んだ。しかし賊の勢いは盛んで、諸将はおおむね怯懦でその鋒に当たろうとせず、かえって賊と通じる者すらあった。
- 參将の桑玉はかつて文安の村で賊に遭い、劉寵・劉宸は追い詰められて民家の楼上に逃れ自刎しようとしたが、桑玉はかねて賊の賄賂を受けていたので手を緩めた。しばらくして齊彦名が大刀を持って現れ、数十人を殺傷し、大声を上げて楼下に迫った。劉寵・劉宸は救いが来たと知って出て数人を射殺し、桑玉は大敗した。
- 參将の宋振は棗强で賊を防いだが一矢も放たず、城はついに陥ち、死者七千人に及んだ。
- このころ劉寵・劉宸らは畿輔から山東・河南を犯し、南下して湖廣から江西に至り、また南から北へ、まっすぐ霸州をうかがった。楊虎らは河北から山西に入り、また東へ文安に至って劉寵らと合流した。破った邑は百を数え、縦横数千里、通る所は無人のごとくであった。
- 馬中錫は時望はあったが兵に習熟せず、張偉もまた紈袴の子弟であった。賊が強く諸将が怯えるのを見て、破れないと判断し、招撫を議した。「盗はもと良民であり、酷吏の寗杲と中官の貪欲に激発されたのだ。誠意をもって遇すれば戦わずに降せる」というのである。そこで令を下し、賊のいる所では捕らえず、通り過ぎるときは迎え撃たず、飢渇していれば食を与え、降る者は死なせないこととした。賊はこれを聞いて招撫に応じようとし、互いに焼き討ちや略奪を戒め合ったが、なお決めかねていた。
- ところが朝廷は京軍が弱いとして辺兵の派遣を議した。馬中錫は戦おうにも兵がまだ集まらず、撫そうにも賊の向背は定まらず、ついに要領を得なかった。すでに招撫を主張して建議した以上、方針を変えられなかった。
- たまたま劉寵らは辺兵が来ると聞いて徳州の桑園に退き屯した。馬中錫は輿でその陣営に入り、酒食を与え、誠意を開いて慰め諭した。衆は拝して泣き、馬を送って長寿を祝い、劉寵は感激して降を請うた。しかし劉宸は天を仰いで嘆息し、「虎に乗って下りられぬ身だ。いま宦臣が国柄を握っているのは誰もが知るところ。馬都堂が自分の一存で決められるものか」と言い、そこで沙汰止みになった。
- しかもこのとき、賊の首に賞金を懸ける詔が出ていた。劉寵らはこれを探り知っていよいよ疑い恐れ、そのまま去って従来どおり焼き討ちと略奪を行った。ただ故城に至ったときだけは「馬都堂の家を犯すな」と戒めた。これによって馬中錫への非難が沸き起こり、「自分の家のために賊を放した」と言われ、言官が交々弾劾し、詔で厳しく責められた。
- 馬中錫はなおその説を堅持して兵を請うた。兵部尚書の何鑑は「賊がまことに武装を解くなら罪を免ずるが、そうでなければ欺かれてはならぬ」と言った。やがて劉寵らはついに降らなかったので、侍郎の陸完を遣わして督師させ、馬中錫と張偉を召し還した。
- はじめ馬中錫が討賊を命じられたとき、大學士の楊廷和は楊一清に「彼は文士にすぎぬ。任には堪えまい」と言った。結局、功なく、張偉とともに獄に下されて死罪と論じられ、馬中錫は獄中で死に、張偉は爵を革された。
- 正徳十一年(1516年)、巡按御史の盧雍が馬中錫の冤を追訴した。「賊は実際に招撫に応じていたのに、僉事の許承芳がこれを妬み、ひそかに増兵を請うて賊の心を疑わせた。賊が再び約に応じて軍門に至ったときには、すでに檻車が道に就いていた」というのである。朝廷はそこで馬中錫の官を復し、祭を賜い廕を与えた。