明史卷一百八十七 列傳第七十五 何鑑

何鑑(字は世光)は浙江新昌の人。成化五年の進士。御史として不職の巡撫や中官の従卒を摘発し、江南巡撫として呉淞・白茆の水路を浚って水害を除いた。𢎞治末には三省の戸口を実査して善後策十事を上申した。正徳六年、大盗が各地に蜂起するなか兵部尚書となり、村落の自衛、要路の封鎖、辺将への分担討伐を組み立てて劉六・劉七ら諸賊の平定を導き、太子太保に至った。ただし乱後に辺軍を京営へ留める措置には反対し切れず、これが「外四家軍」と江彬の登場を招いた。豹房の幸臣の讒言で致仕し、九年後に八十歳で没した。

年表(6件)
  • 成化五年1469年進士となり宜興知縣を授けられ、召されて御史に拝される
  • 𢎞治六年1493年右副都御史として江南を巡撫し、呉淞・白茆の諸水路を浚って水害を除く
  • 𢎞治十八年1505年還朝して河南・湖廣・陝西の戸口を実査し、善後策十事を報告する
  • 正徳二年1507年南京兵部尚書に拝されるが、劉瑾の意に沿わず罰米を科される
  • 正徳六年1511年正月に刑部尚書、五月に兵部尚書となり、諸道の群盗討伐を統括する
  • 正徳八年1513年北方の降人を御馬監の勇士に充てる命に反対するが、聴かれない

篇首の立伝者一覧

  • 何鑑
  • 馬中錫
  • 陸完
  • 洪鍾(附・陳鎬、蔣昇)
  • 陳金
  • 俞諫
  • 周南(附・孫䘵)
  • 馬昊

御史・地方官としての経歴

  • 何鑑は字を世光といい、浙江新昌の人。成化五年(1469年)の進士で、宜興知縣を授けられ、召されて御史に拝された。
  • 宣府・大同を巡察し、巡撫の鄭寧以下数十人の不職を弾劾し、副将の孟璽らの罪を調べた。
  • 還って太倉を巡察し、總督太監の従卒が法を犯したので逮捕して裁いたが、そのために陥れられて錦衣の獄に下され、のち釈放された。
  • 再び江北を巡按した。鳳陽は皇陵のある土地で、近隣では寸ばかりの木を取っても法では死罪であり、陵の守備軍が禁令をたてに民を虐げることが多かった。何鑑は山麓を限りとし、その外の樵採は禁じないよう請い、それが令となった。
  • 河南知府として出、数年続いた飢饉を賑済し、荒政十事を条陳して行った。四川左右布政使を歴任した。
  • 𢎞治六年(1493年)、右副都御史として江南を巡撫し、杭州・嘉興・湖州三府の税糧をあわせて管理した。蘇州・松江の水害では臨機の処置で漕米十五萬石を出して賑済した。侍郎の徐貫とともに呉淞・白茆の諸水路を浚って水を海へ流し、水害を除いた。
  • 再び山東を巡撫し、刑部侍郎に遷ったが、母の憂で去った。

戸口の実査と劉瑾との軋轢

  • 𢎞治十八年(1505年)に還朝した。当時、太平が久しく続いて人口は日ごとに増えているのに、孝宗が天下の戸籍の数を見ると、かえって国初より減っていた。所司の怠慢を咎めて是正しようとし、何鑑にもとの官のまま左僉都御史を兼ねさせ、河南・湖廣・陝西に赴いて戸口を実査させた。得られたのは戸二十三萬五千余、口七十三萬九千余であった。そこで善後策十事および軍民の利害を疏で報告した。すでに孝宗は崩じていたが、武宗はことごとく採用した。
  • 正徳二年(1507年)、南京兵部尚書に拝され、機務に参贊した。何鑑はかつて江南を巡撫していたとき千户の張文冕の罪を調べ、張文冕は逃亡していたが、ここに至って劉瑾のもとで讒言した。劉瑾もまた何鑑が通じてこないのを不快に思っていたので、事に坐して米を罰した。何鑑は貧しくて償えず、訴え出て免除された。

刑部尚書・兵部尚書としての群盗討伐

  • 正徳六年(1511年)正月、召されて刑部尚書となった。当時、大盗が各地で蜂起していた。劉寵・劉宸・楊虎・劉恵・齊彦名・朱諒らが畿輔を乱し、方四・曹甫・藍廷瑞・鄢本恕らが四川を蹂躙し、汪澄二・羅光權・王浩八・王鈺五らが江西を騒がせ、いずれも王を称した。四方から急を告げぬ日はなかった。
  • 兵部尚書の王敞は賊に対処できず、帝はすでに洪鍾・陳金・馬中錫に督師させて分担討伐させていたが、その年五月に王敞を罷めて何鑑を代えた。
  • 何鑑は将を選んで兵を練り、民間の武勇に長けた者を登録し、村ごとに柵を立て溝を浚らせ、互いに囲み結んで救援させた。河南・山西の兵に黄河を守らせて太行の道を断ち、京操の班軍を留めて所在の城邑を守らせ、漕船ごとに運卒一人を河のほとりに屯させて運送路を護り、旅人が通行できるようにした。文武の大官で賊を取り逃がした者は厳しい詔で責め、賊を撃てる県令は褒めるよう請うた。
  • 馬中錫が寇を侮ったと奏し、陸完を遣わして代えさせ、辺将を呼び戻して陸完に従って討たせた。賊は続けざまに辺軍に破られ、四方へ散った。
  • たまたま中官の谷大用と伏羌伯毛銳が軍を率いて臨清に駐屯したので、賊は十二月一日、帝が南郊で犠牲を検分する隙をうかがって車駕を犯そうと謀り、前日に霸州へ向かった。何鑑はただちに奏聞し、夜のうちに備えを設けた。翌朝、帝が召して問うと、何鑑は早く出御して人心を安んじるよう請い、そこで儀礼を済ませて還った。賊は備えがあると知って西へ保定の諸州県を掠めて去った。
  • 河南巡撫の鄧璋が援軍を請うたとき、何鑑は「山東の賊は一萬に満たず、官軍はその十倍以上ある。ところが権勢家の私人が軍に入って頭目となり、軍律を乱して功を奪うので将士の心を失っている。その輩をことごとく都に返し、都指揮以下で失敗した者はその場で軍前で処刑し、さらに辺軍を調発して鄧璋を助けさせたい」と述べ、帝はすべて従った。
  • ほどなく勝報がたびたび届いたので、何鑑に太子少保を加えた。
  • 翌年正月、賊が霸州に突入して京師は戒厳となった。何鑑は辺兵に急いで賊を迎え撃たせ、賊は逃げ去った。賊の首領である楊虎・朱諒が死ぬと、その一味は分かれて山東・河南を騒がせた。何鑑は山東の賊である劉寵・劉宸・齊彦名らを辺将の許泰・郤永・劉暉・李鋐に、河南の賊である劉惠・趙鐩・邢老虎らを辺将の馮禎・時源・神周・金輔に担当させた。
  • まもなく毛銳が敗れ、谷大用とともに召し還された。そこで何鑑は彭澤を用いて仇鉞とともに河南の賊に当たらせ、山東の賊は専ら陸完に委ねるよう請うた。五月に河南の賊が平定され、七月に山東の残賊も平らいだ。陳金と洪鍾もまた順次、江西・四川の諸賊を平らげた。
  • 帝は喜んで何鑑に太子太保を加え、子に錦衣衛世襲百户を廕した。
  • 何鑑は上言した。「群盗は掃討されたが、民は長く兵禍にあった。田租を量って免じ、多方面から賑済し、貪欲残酷な長吏を退け、急を要さない工役を停め、民を旧業に戻して牛と種を貸し与え、その家の課役を三年免除されたい。旧事を訐く者や悪事を改めない者はいずれも法に付されたい」。帝はすべて許した。

辺軍の京営駐留と晩年

  • 先立つ七月、何鑑は群盗が絶えていないとして、辺将の劉暉を山東に、時源を河南に、郤永を畿輔に、李鋐を淮揚に留めて守らせ、各々に總兵の職を仮に与え、事が鎮まってから解くよう請うた。
  • 仇鉞は「辺軍は久しく労し、風土に慣れず人馬ともに病んでいる。いま賊は次第に平らいだから、三分の一を残して討賊に当て、残りはすべて帰したい」と述べた。廷議は二人の議をいずれも是とし、四将にそれぞれ千人を付けて鎮圧に当たらせ、他の将である許泰・神周・金輔・温㳟らはみな部下を率いて辺鎮に帰すよう請うた。帝はこれを許し、延綏の軍はまっすぐ帰らせ、遼東・宣府・大同の軍は闕を過ぎるとき労いの賜物を与えることとした。
  • しかし帝はこのころ兵事をもてあそぶのを好み、寵愛する小人たちが「辺軍は屈強で京軍よりはるかに勝る。京営に留めるべきだ」と言い、帝もそう思った。十一月に三鎮の軍がすべて到着すると、そのまま留めることを命じ、京軍を代わりに派遣した。何鑑は不可を力説し、廷臣も集議してその害を極言したが、帝はついに従わなかった。これ以来、辺軍は大内で団操し、「外四家軍」と号し、江彬が用いられるようになった。
  • 正徳八年(1513年)、宣府から北方の降人である托克托台らが京に送られ、御馬監の勇士に充てるよう命じられた。何鑑らは上言した。「漢・魏が氐・羌を関中に移したとき、郭欽と江統はいずれも晉の武帝に早く乱の階を絶つよう勧めた。苻堅が鮮卑を漢南に置いたときも苻融はその内情探索を憂えた。いま降人を禁中に出入りさせて分に過ぎた寵を与えれば、侮りの心を生む。万一、北の寇がこれを聞き、ひそかに狡猾な者を偽降させて間諜とすれば、将来の患いとならないはずがない」。帝は聴かなかった。
  • 寧王宸濠が護衛の回復を謀ったときは、何鑑が力を尽くして押しとどめた。
  • 都督の白玉が失態で罷免され、豹房の幸臣たちに重い賄賂を贈って復職を求めたが、何鑑は固く従わなかった。そこで幸臣たちは偵察の者をそそのかして、何鑑の家僕が将校から金銭を受け取ったことを摘発させ、言官が章を交わして弾劾したので、何鑑は致仕して去った。
  • 九年を経て卒、年八十。