雲南巡撫までの経歴
- 陳金は字を汝礪といい、應城の人で、武昌に移った。祖父の坦は䕫州知府、父の琳は廣西僉事。
- 成化八年(1472年)の進士に挙げられ、婺源知縣に任じられ、南京御史に抜擢された。𢎞治の初め、浙江を巡按し、還って災異にことよせて文武の高官十九人を弾劾した。侍郎の丁永中、南京大理卿の吳道宏、南寧伯の毛文らの多くが罷免された。
- ほどなく山西副使に遷り、雲南左布政使を歴任し、竹子箐の叛いた苗を討ち平らげた。𢎞治十三年(1500年)、そのまま右副都御史に拝されてその地を巡撫した。
- 孟養の酋である思禄と孟密の酋である思揲が長年兵を構えていた。陳金は詔を奉じて緬甸・干崖・隴川・南甸の諸部の兵を発し、糧十二萬を集めて征討の計を立て、參議の郭緒を遣わして撫させた。思禄は恐れてついに兵を収め、朝貢を修めた。陳金は功により銀と幣を賜った。
- 貴州の兵が賊婦の米魯に敗れ、米魯は退いて平夷衛および大河の扼勒諸堡を攻めたが、陳金は兵を発して続けざまに破り、俸一等を加えられた。
- 召されて南京户部右侍郎となった。正徳の改元にあたり、給事中の周璽らが職に堪えない大臣を弾劾し、陳金もその中に入ったが、詔で不問とされた。陳金は母が老いていることを理由に帰郷を乞うたが許されなかった。
両廣総督と斷藤峽
- ほどなく右都御史として両廣の軍務を總督した。当時、内臣の韋霦らが両廣の各司に貯えた銀を京師に運ぶよう建議したが、陳金は疏で不可を説き、詔で二十余萬が留められた。
- 馬平・洛容の獞が猖獗をきわめたので、陳金は總兵官の毛鋭とともに兵十三萬を発して征し、七千余人を捕斬し、左都御史に進んだ。
- 斷藤峽の苗はしばしば出て略奪した。陳金は、苗は魚と塩を好むから利で繋ぎ止められると考え、約束を定めて民に苗と交易させ、峽の名を「永通」と改めた。しかし苗の性は貪欲で狡猾で、初めは表向き約に従ったが、やがて代価を払わず、殺掠はいっそうひどくなった。潯州の人は「永通は通ぜず、来たりて江中に葬らる。誰かこれを作せる。ああ陳公なり」と言い合った。陳金の策の誤りを咎めたものである。
- 正徳三年(1508年)十月、南京户部尚書に遷り、翌年冬、召されて左都御史となったが、その命を聞かぬうちに母の喪で帰った。
江西の群賊平定と土兵の害
- 正徳六年(1511年)二月、江西で盗賊が起こったので、詔で陳金をもとの官で起用し軍務を總制させ、南畿・浙江・福建・廣東・湖廣の文武の将吏をすべて隷属させ、臨機の処置を許し、都指揮以下で命に従わぬ者は独断で処刑することを認めた。
- このとき撫州では東鄉の賊である王鈺五・徐仰三・傅傑一・掲端三ら、南昌では姚源の賊である汪澄二・王浩八・殷勇十・洪瑞七ら、瑞州では華林の賊である羅光權・陳福一ら、さらに贛州では大㡌山の賊である何積欽らが起こり、官軍は数年かかっても平定できなかった。
- 陳金は属郡の兵では足りないとして、奏して廣西の狼兵・土兵を動員した。翌年二月、まず東鄉に進兵し、參議の徐蕃らを遣わして要害に分屯させ、副總兵の張勇、土官の岑瑬・岑猛にそれぞれ官兵と目兵を率いさせて熟塘で賊を撃ち、南㙩で進戦し、赤㟁・䕃嶺で追い破って徐仰三を捕らえ王鈺五らの首を取り、柵二百六十五を落とし、斬首一萬一千六百余級、俘虜七百五十余人を得た。
- 五月、軍を姚源に移し、參政の董朴・吳廷舉らに餘干・安仁・貴溪・鄱陽・樂平に分営させて賊を遮らせ、自ら大軍を率いてその巣を衝いた。殷勇十は重傷を負って死んだ。張勇が目兵を率いて到着すると、毒矢で洪瑞七・成七らを射殺し、あわせて五千余人を捕斬した。
- 七月、勝ちに乗じて羅光權を斬り、華林の賊はすべて平定された。さらに副使の王秩らを督して大㡌山の賊を撃ち、何積欽を捕らえ、千七百余人を捕斬した。半年の間に賊をほぼ討ち尽くした。
- そこで東鄉に県を立て、あわせて萬年縣を立て、降人を招いて住まわせた。前後、勝報を奏するたびに璽書で嘉労され、銀と幣を賜り、太子少保を加えられ、子に錦衣衛世襲百户を廕された。
- 陳金は続けざまに強敵を破ったが、用いた目兵は貪欲残虐で殺戮を好み、掠奪は賊よりひどかった。数百口の大族が一門皆殺しに遭った例もあり、捕らえた婦女はみな賊の家族だと称して数千艘に載せて連れ去った。民間では「土賊はまだ我慢できるが、土兵は我らを殺す」という歌が流れた。陳金も民が苦しんでいるのを知っていたが、その力に頼っていたので禁じず、また自らも清廉を保てず、軍資をかなり私したので、功は多くとも士民は深く怨んだ。
- 東鄉の役では、岑瑬の兵が弩を放つと飛ぶように敏捷で、賊は大いに窮したが、岑瑬の兵は千金の賞を要求した。陳金が惜しんで与えなかったので、賊を放って逃がし、狡猾な者の多くが死を免れ、なお数千人を数えた。陳金は功を急ぎ、そこで招撫の令を下した。
- 姚源の賊を破ったときも、陳金は喜んで成功は目前だとし、将吏と酒宴を張った。賊は要害に守りがないのを見て取り、有り金をすべて目兵に賄い、日暮れに乗じて逃げ去った。当時、賊は三日も炊事が絶えて必死を覚悟しており、道中で幼児や弱者を捨て婦女を散らし、貴溪に至ってようやく一飽を得て、そのまま衢州・徽州のあたりを転戦して掠めた。陳金は失策を悟ってやはり招降の令を下したが、賊の首領である王浩八らはわざと偽って降り、官軍の攻撃を緩めさせつつ従来どおり掠奪し、ついに討ち尽くせなかった。
- 紀功給事中の黎奭および両京の言官が章を交わして陳金を弾劾したので、陳金は召し還され、俞諫が代わった。陳金はそこで喪に服することを願い出て去った。
両廣再任と晩年
- 正徳十年(1515年)、再び起用されて両廣の軍務を督した。府江の賊である王公珣らが乱を起こすと、陳金は諸道の兵を集め、總兵官の郭勛らとともに六路に分けて討ち、王公珣を斬って多くの俘獲を得た。少保・太子太保を加えられ、子への廕も前と同じであった。さらに饒平の勝報により、先に廕を受けた子を一階進めるよう詔された。
- 陳金は召しに応じて還る途中で病を得て帰ったが、詔で強いて起用され、正徳十四年(1519年)冬に入って都察院の事を掌った。世宗が立つと老齢を理由に致仕を請い、駅伝で帰るよう命じられた。久しくして卒した。