明史卷一百八十六 列傳第七十四 陳夀

出自と延綏巡撫

  • 陳夀は字を本仁といい、先祖は新淦の人。祖父の志𢎞は洪武年間に兄に代わって遼東の戍に就き、そのまま寧逺衛に籍を置いた。
  • 陳夀は若くしてはなはだ貧しかったが、落とし物の金を拾うと夜半までそこを守り、持ち主に返した。同郷の賀欽に学んだ。
  • 成化八年(1472年)の進士に登り、户科給事中を授けられた。宣府・大同の辺防を視察して、行いの正しくない鎮守中官を弾劾して罷めさせた。また万貴妃の兄弟および中官の梁芳、僧の繼曉を弾劾して詔獄に繋がれたが、釈放された。たびたび遷って都給事中となった。
  • 𢎞治元年(1488年)、王恕が吏部にあって陳夀を大理丞に抜擢した。劉吉は王恕を恨み、御史をそそのかして「陳夀は刑名に習熟していない」と弾劾させ、それで王恕を罪に落とそうとした。結局、陳夀は南京光祿少卿に転じ、そのまま鴻臚卿に転じた。
  • 𢎞治十三年(1500年)冬、右僉都御史として延綏を巡撫した。和碩がたびたび辺を侵し、前任の鎮守・巡撫の官はいずれも罪を得て去っていた。陳夀は着任すると軍備を調べ、間諜を広く放ち、士馬を十道に分けて互いに応援させたので、軍勢がはじめて振るった。
  • 翌年、諸部が大挙して侵入し、まず百余騎で誘いをかけた。諸将は撃つよう請うたが、陳夀は許さず、自ら帳を出て数十騎を従え、胡牀に腰かけて指図し飲食した。寇は望み見て疑い、引き上げた。諸道が襲撃して斬獲がすこぶる多かった。朝廷はまさに苗逵らの大軍を差し向けようとしていたが、陳夀はすでに勝報を奏していた。孝宗はこれを嘉して禄一等を加えた。
  • 苗逵は勝ちに乗じて巣を衝こうとして延綏に長く駐屯した。戦馬三萬匹の日々の秣代は莫大であった。陳夀は塞の近くに出して水草で放牧するよう請い、皆が難色を示すと、自ら馬に乗って先に行ったので皆従い、数十萬の費用を省いた。
  • 戦勝のとき、子弟の名を軍籍に付けるよう勧める者があったが、陳夀は「わが子弟は弓も槊も知らぬ。どうして血戦した士とともに賞を受けられようか」と言い、ついに許さなかった。

南院と陝西巡撫、晩年

  • 𢎞治十六年(1503年)、右副都御史として南京都察院を掌った。正徳の初め、劉瑾が詔を偽って南京の科道官である戴銑・薄彦徽らを逮えたとき、陳夀は章を上げて救いを論じた。劉瑾は怒って致仕させた。ついで延綏の倉の備蓄が欠損した件に坐して米二千三百石・布千五百匹を罰せられたが、貧しくて償えず、章を上げて訴えた。劉瑾も陳夀が貧しいことを知って、特にこれを免じた。
  • 中官の廖堂が陝西を鎮守して貪暴だったので、楊一清は陳夀の剛毅果断を買い、正徳九年(1514年)正月に起用してその地を巡撫させた。廖堂は初め詔を奉じて氈幄百六十間を製したが、余った金数萬を権幸に贈ろうとしていた。陳夀は所司に檄して賑済に備えさせ、さらに廖堂に貢献の名を借りて取り立てをせぬよう戒めた。廖堂は怒って陥れようとし、陳夀は四たび辞職を乞うたが許されなかった。廖堂の手下数十人が府県に散って利を漁っていたので、陳夀は捕縛を命じ、皆逃げ帰ったので、廖堂の勢いはますます沮喪した。
  • その秋、南京兵部侍郎に拝された。陝西の人は号泣して輿を取り囲み、その日は出立できず、一年余ののち骸骨を乞い、そのまま刑部尚書に進んで致仕した。
  • 陳夀は給事中として時政を隠さず言ったが、人を弾劾するのだけは好まなかった。「父は私に刑官になるなと戒めた。刑官は人を冤罪にしやすいからだ。言官が人を冤罪にするのはなおひどい。だから私はみだりに言わない」と語った。
  • 嘉靖の改元にあたり、詔で一品の階に進み、有司を遣わして見舞われた。ときに年八十三。
  • 陳夀は清廉で、官歴四十年にして帰るべき家もなく、南京に寓居し、その住まいは風雨を凌げなかった。卒したときは尚書の李充嗣と府尹の寇天叙が納棺にあたり、さらに数年して親戚旧友が□(底本欠字)助して、ようやく新淦に帰葬することができた。