明史卷一百八十六 列傳第七十四 雍泰

呉縣知縣から山西按察使まで

  • 雍泰は字を世隆といい、咸寧の人。成化五年(1469年)の進士で、呉縣知縣に任じられた。太湖が増水して田千頃が水没したので、堤を築いて民の利とし、「雍公堤」と称された。
  • 民の妾が逃げ去ったとき、妾の父が「その夫が密かに娘を殺し、湖の石の下に屍を隠した」と訴え出た。雍泰は「相手が密かにお前の娘を殺したのなら、なぜ隠し場所を知っているのか。しかもこの屍は二か月のものではない。きっとお前が他人の娘を殺し、賄賂を得ようとしたのだ」と詰問し、一度の取り調べで自白させた。
  • 召されて御史となり、両淮の塩政を巡視した。竈丁で妻のない者に雍泰が縁組をさせた。
  • 鳳陽知府として出、父の憂で去り、服喪が明けて南陽知縣となった。余子俊が督師のとき推薦して大同兵備副使とし、山西按察使に抜擢された。
  • 雍泰は剛直清廉で、行く先々で豪強を打ちのめすことを好んだ。太原知府の尹珍が路上で会って避けきれなかったとき、雍泰は召し出して跪かせ罪状を数え上げた。尹珍が服さないので、雍泰はついに笞打った。尹珍は朝廷に訴え、あわせて「雍泰は罪もないのに人を杖殺した」と告げたので、逮えられて詔獄に下された。王恕が雍泰の罪を寛くするよう請い、たまたま赦に当たったので、湖廣參議に降された。

宣府巡撫と失脚

  • 𢎞治四年(1491年)、浙江右布政使に転じたが、また母の憂で去った。𢎞治十二年(1499年)、右副都御史として起用され宣府を巡撫した。
  • 官馬が死んだとき軍士が償えずにいたので、雍泰は朝廷に言って官の帑で購わせた。辺軍で貧しく妻のある者がしばしば妻を売っていたので、雍泰は官が資金を給するよう請うた。尚書の周經はそこで、貧しい者には聘財を給し、売った者には身請けさせることにしたので、軍はみな喜んだ。
  • 參将の王傑に罪があり雍泰が弾劾したが、逆に雍泰が逮問された。雍泰がさらに千户八人を糾すよう請うと、帝は雍泰がしばしば武臣を抑えているとして、都察院に調査させようとした。參将の李稽が事に坐して雍泰の重い弾劾を恐れ、杖刑を受けたいと乞うと、雍泰は大杖を取って打った。李稽はそこで雍泰が凌虐したと奏した。
  • 帝は給事中の徐仁に錦衣千户を伴わせて調べさせた。王傑もまた人を走らせて登聞鼓を打ち、「雍泰はみだりに将校八十六人を逮え、その婿は賄賂を受けている」と訴えた。法司が調べて上申し、民に落とされた。
  • 武宗が立つと、給事中の潘鐸らが「雍泰には死を恐れぬ節と乱を治める才がある」と推薦し、吏部尚書の馬文升は雍泰を南京右副都御史に起用して操江を提督させたが、固辞して赴かなかった。
  • 正徳三年(1508年)春、許進が吏部にあって前の官に再び起用し、七月に南京户部尚書に抜擢された。劉瑾は雍泰と同郷であったが、雍泰が通じてこないのを怒り、わずか四日で致仕させ、許進が雍泰に肩入れしたとして、二人の籍を削った。あわせて馬文升および以前に雍泰を推薦した尚書の劉大夏、給事中の趙士賢、御史の張津らを追放して民とし、そのほか米を辺に納める罰を受けた者が五十余人に及んだ。
  • 雍泰は帰って韋曲の別荘に住み、城市に入らなかった。劉瑾が誅されて官に復し、致仕して八十で卒した。卒するとき、寝台の下で雷のような音がしたという。
  • 雍泰は身を持することが倹素で、貴賓が来ても肉は二品を出なかった。尚書となっても緋衣がなく、卒してから家人がはじめて作って納棺した。天啟年間に諡を端惠と追贈された。

張津

  • 張津は字を廣漢といい、博羅の人。成化末の進士で、建陽知縣に任じられた。城郭を築いて鉱山の盗賊を防ぎ、朱熹・蔡元定ら諸賢の祠を建て、祭田を置いてその子孫に与えた。
  • 憂で帰り、大冶知縣に補され、召されて御史となった。
  • 𢎞治十四年(1501年)冬、吏部尚書に欠員が生じ、廷臣は馬文升と閔珪を推したが、張津は同官の文森・曽大有とともに、致仕した尚書の周經、両廣總督の劉大夏を用いるよう請い、旨に逆らって詔獄に下された。給事中・御史が救いを論じて釈放された。
  • ついで「陛下は大臣にだけ諮問し、下級の官には及ばない。これでは耳目を明らかにするやり方ではない」と述べ、卿の補佐官・侍従および考課満了や朝覲で上京する地方官も、随時進見して下情を通じられるようにするよう乞うた。
  • 武宗の初め、廣西を巡按し、總鎮中官の韋經が官帑を勝手に動かした件を弾劾した。あらかじめ富川・賀県の賊を平定して賞賜を受けた。
  • 泉州知府として出たが、かつて雍泰を推挙したことに坐して民とされた。劉瑾が敗れると寧波知府に起用され、山東左參政に遷り、右僉都御史に抜擢されて操江を提督し、右副都御史に進んで應天諸府を巡撫した。管内が水旱に見舞われたので織造の停止を請うた。車駕の北巡には疏で諫めたが返答はなかった。
  • 浙江の孝豐で奸民が深山に拠って捕縛を拒むこと二十年、誰も制することができなかったが、張津は別件にかこつけて浙江に赴き、ことごとく縛った。
  • 户部右侍郎を加えられ巡撫は元のままであった。帝が宣府から還って再び北へ行幸しようとしたとき、疏で切に諫めたが返答はなかった。卒して南京户部尚書を贈られた。