明史卷一百八十六 列傳第七十四 許進

許進(字は季升)は靈寶の人。成化二年の進士。汪直に逆らって廷杖を受け、孝宗の即位で復して大同を巡撫し、小王子の貢使を統制して辺防を整えた。馬文升の推薦で甘肅巡撫となり、土魯番に奪われた哈密を雪中の強行軍で回復した。武宗の初めに兵部尚書、次いで吏部尚書となったが、劉瑾に逐われて籍を削られ、劉瑾の誅後に復官の命を聞かぬまま七十四歳で没した。子の誥・讚・論はいずれも顕官に至り、讚は吏部尚書から入閣、論は『九邊圖論』で知られる兵部尚書となった。

年表(14件)

出自と初期の官歴

  • 許進は字を季升といい、靈寶の人。成化二年(1466年)の進士で、御史に任じられ、甘肅・山東を巡按していずれも名声があった。
  • 陳銊が遼東で変を起こしたとき、御史の强珍が弾劾し、許進も同官を率いてこれを論じた。汪直が怒って强珍を陥れて獄に下し、許進の他の疏の誤字をあげつらって廷杖したので、危うく死にかけた。
  • 三考を満たして山東副使に遷り、疑わしい獄を弁別して神明と称された。遼東を分巡していたとき連座して詔獄に下されたが、孝宗が位を継ぐと釈放されて帰った。

大同巡撫と貢使の処置

  • 𢎞治元年(1488年)、右僉都御史に抜擢され大同を巡撫した。小王子は久しく朝貢が絶えていたが、使者千五百余人を遣わして関を叩いた。許進は臨機の処置として受け入れ、朝廷に請うたところ、詔で五百人の京師到着が許された。
  • その後、たびたび辺を侵したので許進は弾劾されたが、不問とされた。𢎞治三年(1490年)に再び辺をうかがったときは、許進らが軍を整えて待ち、新寧伯譚祐が京軍を率いて援けたので敵は退いた。
  • 再び通貢を乞うたので、許進が重ねて請い、帝は許した。このころ大同の兵馬は盛んで辺防も整い、貢使は関に至るたび馬を下り弓矢を外して館に入り、俯いて命に従い、騒ぐ者はなかった。
  • たまたま許進と分守中官の石岩とが互いに訐き合い、石岩は召還され、許進も兖州知府に左遷された。

哈密の回復

  • 𢎞治七年(1494年)、陝西按察使に遷った。土魯番の阿哈瑪特が哈密を攻め落とし、忠順王の善巴を捕らえ去り、その将の伊蘭に守らせていた。尚書の馬文升は「哈密を回復できるのは許進をおいてない」と言い、右僉都御史に推薦して甘肅を巡撫させた。
  • 翌年、鎮に臨んで諸将に告げた。「小賊が跳梁するのは、我らが深入りしないと侮っているからだ。堂々たる天朝が一矢も放たずにいて、塞外の遠人をどう慰めるのか」。諸将は難色を示した。
  • そこで許進は独り總兵官の劉寧とはかり、舒埒圖と厚く結んで四千騎で向かわせ、数百人を殺した。舒埒圗は流れ矢に当たって死んだ。舒埓圗はもともと土魯番と代々の仇であり、その死によって子の博囉阿爾台はいっそう憤った。許進は改めて厚く結んで賊の道を断たせ、東の伊蘭を援けさせないようにし、また赤斤・罕東および苦峪に住む哈密の遺民を重く犒って出兵させ討伐を助けさせた。
  • 十一月、副将の彭清が精騎千五百を率いて嘉峪關を出て先行し、劉寧と中官の陸誾が二千五百騎を率いて続いた。八日を越えて諸軍は伊濟穆爾川で合流した。夕暮れに大風が砂を巻き上げ、軍士は寒さに震えて倒れ伏した。許進は帳の外に出て軍を労ったが、異鳥が悲しげに鳴き、将士の多くが涙を流した。許進は慷慨して「男児が国に報いて沙場に死ぬのは幸いだ。何を泣くか」と言い、将士は皆感奮した。
  • 夜半に風がやみ、大雨と雪になった。このとき番兵はみな集まっていたが、罕東の兵だけが着かず、皆は待とうとした。許進は「ひそかに遠く襲うのは迅速が利。兵はすでに足りている、待つには及ばぬ」と言った。夜が明けると雪を冒して倍の速さで進み、さらに六日で哈密城下に至った。
  • 伊蘭はすでに逃れ去っており、残った賊が拒み守ったが、官軍は四面から進んでその城を抜き、善巴の妻子を得た。
  • 賊は退いて圖拉を守った。圖拉とは「大臺」の意である。守る者は八百人で、諸軍が再び戦っても落ちない。捕虜に問うと、いずれも伊蘭に脅し取られた哈密の人であった。そこで許進は攻撃をやめさせた。皆殺しにしようと言う者もあったが、許進は許さず、使者を遣わして撫諭するとただちに降った。
  • そこで伊蘭の向かった先を探り、要害を分け守らせ、罕東の諸衛を懐柔して援けとし、土魯番の党与を離散させてその勢いを孤立させるよう疏で請い、軍を返した。功を録して右副都御史を加えられた。

兵部・吏部尚書と失脚

  • 翌年、陝西の巡撫に移り、户部右侍郎を歴任して左侍郎に進んだ。
  • 𢎞治十三年(1500年)、和碩大が大同を犯し、辺将がたびたび敗れたので、許進は太監の金輔・平江伯陳鋭とともに京軍を率いて防ぐよう命じられたが、功がなかった。言官が金輔らの寇を侮った罪を弾劾し、あわせて許進も論じたので、致仕して去った。
  • 武宗が即位すると起用されて兵部左侍郎となり団営を提督した。正徳元年(1506年)、劉大夏に代わって尚書となった。
  • 七月、詔に応じて時政八事を陳べ、内監が京軍を役して皇城を守らせること、内侍が月銭を横暴に取り立てることなどの弊を極言したが、多くは阻まれて行われなかった。また帝が小人を身近に置くとして、聖学を尊び古の荒淫の君を戒めとするよう請うたが、容れられなかった。
  • 中官の王岳が、官校の王縉らが探索と捕盗の功でそれぞれ一階進むよう奏したとき、許進は「辺将は万死を冒して賊一人の首を得てようやく昇進する。この輩がそれを濫りに得るのでは、誰が意気阻喪せずにおられよう」と述べた。また団営の軍は造営のためのものではないから、すべて隊伍に戻すべきだと述べた。
  • 兵部に半年いて吏部に移り、翌年に太子少保を加えられた。
  • 許進は才によって用いられ、人をよく任用した。性質は聡敏で、劉瑾が権を弄すると多くは体をかわしてその意に従ったが、劉瑾はついに喜ばなかった。
  • 許進が団営を督していたころ、劉瑾と同事であり、閲兵のたびに談笑しながら指揮し、態度は閑雅だったので、劉瑾も諸将も感服した。ある日、閲兵が終わると突然三人の校尉を呼び出してそれぞれ数十杖を加えた。劉瑾がその理由を問うと、許進は権貴の請託の書状を出して見せた。劉瑾は表向き善しと称したが、内心は喜ばなかった。
  • ここに至って劉瑾は許進を除いて劉宇を代わりに用いようとし、焦芳もまた請託がかなわなかったので許進を排斥した。
  • 正徳三年(1508年)八月、南京刑部郎中に欠員が生じ、たまたま実授の員外郎がいなかったので、許進は先例に従って署事の主事二人を上申した。劉瑾は制度違反として弁明を命じたが、許進は自らの非を認めなかった。三たび厳旨で叱責され、やむなく罪を請うと、致仕させられた。
  • まもなく雍泰を用いた件に坐して籍を削られ、二人の子の誥と讚は翰林にあったがともに贖罪の銀を納めて外任に移された。ほどなく劉健ら六百七十五人とともに誥命を追奪された。
  • 劉瑾はさらに、許進が大同にいたころ軍籍を作る際に雇役銭を出して照合を怠ったとして、その家を没収しようとしたが、劉瑾が誅されたので解けた。官に復して致仕したが、その命を聞かぬうちに卒した。年七十四。嘉靖五年(1526年)に諡を襄毅と贈られた。
  • 子は誥・讚・詩・詞・論。詩は工部郎中、詞は知府となった。

許誥

  • 誥は字を廷綸といい、許進の次子である。𢎞治十二年(1499年)の進士で、户科給事中を授けられた。延綏の軍儲を視察して丁糧・丁草の害を論じ、帝はこれを褒めて容れた。ついで監督中官の苗逵の貪欲横暴の罪を弾劾し、刑科右給事中に進んだ。
  • 正徳元年(1506年)、父の許進が兵部尚書となったが、先例では大臣の子は言官の職に就けないので、翰林檢討に改まった。
  • 許進が劉瑾に逆らって籍を削られると、誥もあわせて全州判官に左遷された。父の喪で帰り、久しくして推薦されて尚寶丞に起用されたが、病と称して帰り、家で門人に授業し講学した。
  • 嘉靖の初め、南京通政參議に起用され、侍講学士に改まって経筵に侍り、太常卿に遷って国子監を掌った。太学の中に敬一亭を建て、御製の敬一箴と、程子の四箴・范浚の心箴の注を石に刻むよう請い、帝は喜んで従った。
  • 帝が文廟の祀典を正そうとしたとき、誥は木主を用いるよう請うた。文華殿の東室に旧来あった釈迦の像は、帝が命じて撤去させた。誥の撰した『道統書』は、五帝三王を崇祀し周公・孔子を配すべきだと説き、帝はただちにその言を採用した。
  • 嘉靖十一年(1532年)、吏部右侍郎に抜擢され、その冬に南京户部尚書に拝された。弟の讚もまた户部を掌り、兄弟がともに両京の財政をつかさどったので、士大夫はこれを名誉とした。官にあって卒し、太子太保を贈られ、諡は莊敏。
  • 誥が祭酒であったとき、諸生で棺を故郷に帰せない者三十余人をみな葬り、衣食が続かない者にも一様に手当てした。ただし付会を好むところがあり、当時、白鵲の瑞があると誥は論を献じ、司業の陳寰は頌を献じて、ともに史館に付された。給事中の張裕・謝存儒、御史の馮恩がいずれも誥を弾劾し、張裕は誥を祝欽明になぞらえた。帝は怒って張裕を獄に下し福建布政司照磨に左遷し、謝存儒も辺方に転じた。馮恩は誥の学術が迂遠邪曲だと詆った。誥が罷免を求めると、帝は「馮恩が詆ったのは先日の土偶を撤して木主を用いた件を指すもの。お前がそれを気にすることがあろうか」と言った。帝の寵遇はこのようであった。

許讚――刑部・吏部と告訐の風

  • 讚は字を廷美といい、許進の第三子である。𢎞治九年(1496年)の進士で、大名推官を授けられ、これも疑獄の弁別で名を知られた。召されて御史に拝された。
  • 正徳元年(1506年)に編修に改まったが、劉瑾が許進を追ったとき讚も臨淄知縣として出された。累進して浙江左布政使となった。
  • 嘉靖六年(1527年)、入って光禄卿となり、刑部左右侍郎を歴任した。知州の金輅が戍に流されたとき、武定侯郭勛に賄賂を贈った。郭勛が人を遣わして奪い取ろうとしたが、指揮の王臣が渡さなかったので、王臣を縛って連れ帰りその賄賂を奪った。事が発覚し、讚らは律どおりの処断を請うたが、帝は郭勛を憐れんで法司に金輅らを拷問させぬよう諭したので、金輅らは自白しなかった。尚書の髙友璣は休暇中で、萎縮したとして弾劾され去った。讚は通常どおりの訊問を請うて郭勛が賄賂を受けた実状を得、そこで郭勛は重ねて禄を奪われた。
  • 嘉靖八年(1529年)に尚書に進んだ。詔で六部で実務を学ぶ監生に廷臣の奸弊を摘発させることが許された。詹□(底本欠字)なる者が吏部侍郎の徐縉を訐き、都御史の汪鋐が訊問すると詹□は答えに窮し、罪を論じられかけた。詹□は再び徐縉および通政の陳經らを訐き、また汪鋐が訊問して、その妄を強く斥けた。ちょうど太常卿の彭澤が徐縉を陥れて代わろうとし、徐縉の書状を偽造して張孚敬に和解を求めたように見せかけ、さらに張孚敬をそそのかして徐縉の収賄を弾劾させた。徐縉が疏で弁明したので、詔で法司が錦衣衛と会同して訊問した。讚らは結局、詹□の誣罔を論じたが、徐縉の贈賄の件は明らかにできず、除名に坐した。帝はかえって詔に応じて事を言った詹□を嘉し、その罪を宥した。
  • そこで無頼の徒がこぞって朝士の隠し事をつかんで金品を要求し、みだりに事件をでっち上げて奏上したので、諸司は戦々恐々とした。
  • 軍人の童源が、中官の張永が墓を造って夭夀山の龍脈を犯したと訐き、さらに張永の弟の張容の僕である王謙らをそそのかして張容の違法を摘発させた。奸人の張雄がまた王謙のために奏を草し、讚と兄の誥、および汪鋐・廖道南・史道・内臣の黄錦ら数十人が張容から重い賄賂を受けたと詆り、童源も疏を上げて助けた。取り調べで実情が明らかになり、童源らはともに極辺に流された。ここで告訐の風がようやく衰えた。

許讚――吏部尚書から入閣まで

  • 嘉靖十年(1531年)、讚は户部尚書に改まり、駅伝を用いて帰って母を見舞ったが、母は先に卒していた。服喪が終わらぬうちに詔で吏部尚書とされ、服が明けてはじめて入朝した。
  • 帝は讚が醇厚謹直だとして、位を空けて待っていたが、着任後の論列が意に添わなかった。詔で東宮の官僚を選ぶことになったが、閣臣が私党を多く引いたので、言官が十余人を弾劾して罷めさせた。帝がこれを吏部に委ねると、讚は霍韜・毛伯温・顧璘・吕柟・鄒守益・徐階・任瀚・薛蕙・周鉄・趙時春らを挙げた。詔で顧璘・吕柟・薛蕙はもとの官のままとし、他はみな用いられた。
  • たびたび少保・兼太子太保を加えられた。九廟の火災のとき自ら陳べて免ぜられたが、半年して帝は後任に困り、再び讚を起用してこれに当たらせた。
  • 讚は、内帑を出すこと、百官の俸を借りること、富民の財を集めること、売官の令を開くことを請うて辺境の需要を賄おうとした。当時、内地に墩堡を築く議があったが、讚はよい策ではないとした。帝は俸を借り財を集めるのは盛世の事ではないとしてやめさせ、墩堡の議もまた沙汰止みとなった。
  • 翟鑾と嚴嵩が政柄を握って請託が多かったので、郎中の王與齡が讚にこれを摘発するよう勧めた。嚴嵩が強く弁じ、帝の寵は嚴嵩にあったので、かえって讚を厳しく叱責し、王與齡の籍を除いた。讚はこれ以来、嚴嵩を恐れて抗することができず、また収賄の噂も立つようになった。
  • 翟鑾が罷免され、帝が後任を謀ったとき、嚴嵩は讚が柔和で御しやすいとしてこれを引いた。詔で本官のまま文淵閣大學士を兼ね機務に参預したが、政事はすべて嚴嵩の一存で決まり、讚は可否を言わなかった。
  • 久しくして少傅を加えられた。七十を越えたことを理由にたびたび辞職を乞うたが、帝は君を忘れ身を惜しむものだと責め、職を落として閑住させた。帰って三年で卒した。のち官を復して少師を贈られ、諡は文簡。

許論――九邊圖論と辺務

  • 論は字を廷議といい、許進の末子である。嘉靖五年(1526年)の進士で、順徳推官を授けられ、入って兵部主事となり、礼部に改まった。
  • 兵事を語るのを好み、幼いころ父に従って辺境を巡り、要害と険易をことごとく知っていたので『九邊圖論』を著して上呈した。帝は喜んで辺臣に頒ち、議して施行させた。これ以来、兵に通じていることで知られた。
  • 累進して南京大理寺丞となった。廷推で順天巡撫を選ぶとき、論の名は第二位にあったが、帝は「これは『九邊圖論』を上呈した者だ」と言い、ただちに右僉都御史に拝してこれに当たらせた。
  • 白通事が千余騎で黄崖口を犯すと、論は将士を督して破った。再び大木谷を犯したときも官軍が退けた。功を録して右副都御史に進んだ。
  • 一年余りで病により免ぜられた。諳達が都城に迫ると、もとの官で起用されて山西を巡撫し、防秋の功を録して兵部右侍郎に進み、召されて京營の戎政を管理し、京師の外城を築いた功で左侍郎に転じた。
  • 嘉靖三十三年(1554年)、宣府・大同・山西の軍務を督することとなった。奸人の吕鶴は初め邱富とともに邪法で衆を惑わし、邱富は叛いて諳達に降ってその謀主となった。吕鶴は一味を塞外に潜出させ寇を引き入れて侵犯させようとしたが、偵察の兵に捕らえられた。論は兵を遣わして吕鶴を捕らえ、その一味もあわせて誅した。功により右都御史に進み、さらに功により兵部尚書に進み、子に錦衣衛世襲千户を廕された。

許論――大同の辺牆改築の議

  • 翁萬達が總督であったとき、大同の辺牆六百里を築き、一里ごとに墩臺一つを牆の内側に建てた。のちに兵が少なく牆を守りきれないとして、すべて撤して臺だけを守るようになった。
  • 論は「兵が臺を守るだけでは、寇が牆を攻めてもその力を用いることができず、寇が牆内に入れば皆が驚いて逃散する」と述べ、牆の外側に築き替えるよう請うた。すなわち三百歩ごとに一臺を建てて矢石が届くようにし、牆からの距離は三十歩を越えず、高さと広さは四方四丈五尺、その頂は三分の一を減じ、上に女牆と営舎を置いて壮士十人に守らせ、下に月城を築き門を穿って出入りさせる。工費は九萬金を出ないと見積もり、数か月で足りるとした。詔でただちにこれに従った。
  • 寇が一萬騎で山西を犯すと、論は軍を督して朔州川で撃ち破った。宣府の龍門を犯した者も将士が破った。前後の俘斬は五百三十余。太子太保を加えられ、子への廕も前と同じであった。

許論――兵部尚書としての晩年

  • 嘉靖三十五年(1556年)、兵部尚書の楊博が父の喪で去り、召されて論が代わった。
  • このころ嚴嵩父子が権勢をふるい、将帥はおおむね賄賂で登用され、南北で兵を用いて帝は中枢を厳しく責め立て、丁汝䕫・王邦瑞・趙錦・聶豹はいずれも無事に退けなかった。論はすでに老いて自らを重んじ身を顧み、いっさいの将帥の黜陟や兵機の進止を嚴世蕃の指図に任せたので、名望はこれによって損なわれた。
  • 諳達の子の錫林阿は、總督の楊順が自分の逃げた妾を受け入れたことに憤り、衆を率いて大同右衛城を幾重にも囲んだ。城中は家を壊して炊事するありさまとなり、帝は聞いて深く憂え、密かに嚴嵩に問うた。嚴嵩は城を放棄したかったが言い出しにくく、諭を下して本兵(兵部尚書)に問うよう請うた。論は右衛の軍馬を回復すれば毎年五十萬金を要すると、わざと難しい言葉を並べて帝の心を動かそうとした。しかし帝はかえって急いで餉を手当てし兵を発し、文武の将吏を入れ替えたので、右衛の囲みもほどなく解けた。
  • 給事中の吴時來が楊順を弾劾し、あわせて論が雷同附和して日々酔いしれ辺境の警報を度外視していると言ったので、帝はついに論の籍を削った。嚴嵩がわずかに取りなしたが救えなかった。
  • 嘉靖三十八年(1559年)、もとの官で再び起用され、薊遼・保定の軍務を督した。巴圖爾が薊西を犯したが、論は精鋭を厚く集めて待ち、来たところを遊撃の胡鎮が破った。分かれて沙兒嶺・燕子窩を掠めた者も退けられ、そこで敵は逃げ去った。事が報じられて銀と幣を厚く賜った。
  • ほどなく密雲・昌平二鎮の防秋に餉銀三十余萬が必要だと奏したが、給事中の鄭茂が「論の請求は過大である。侵冒の弊を調べるべきだ」と言い、詔で論を郷里に帰して勘問を待たせた。給事中の鄧棟が出向いて調べ、虚偽の請求の実状をことごとく得たので、官を奪われ閑住となった。まもなく卒、年七十二。隆慶の初めに官を復され、諡は恭襄。
  • 曽孫の浩然は世□(底本欠字)によって太子太保・左都督まで歴任した。浩然の子の達は錦衣指揮を廕され、李自成が京師を陥れたとき屈せず死んだ。その従兄の佳は𢎞農衛指揮を廕され、崇禎十四年(1641年)に賊が靈寶を破ったとき、力の限り戦って死んだ。