明史卷一百八十六 列傳第七十四 楊守隨

楊守隨(字は維貞)は鄞の人で、侍郎楊守陳の従弟。成化二年の進士。御史として郕王の諡の改定や李秉の召還を含む六事、災異にちなむ時政九事を条陳し、その気概を憚られた。李孜省・蔣琮ら中官と衝突してたびたび左遷されたが、𢎞治年間に大理卿から工部尚書に進み、なお大理寺を掌って中官李興の減刑を拒んだ。韓文に八党弾劾を促し、韓文らが逐われた後も独り上疏して劉瑾らを極言したため致仕させられ、罰米と除名で家は破産した。劉瑾の誅後に復官し、八十五歳で没して康簡と諡された。

年表(6件)

出自と御史時代の条陳

  • 楊守隨は字を維貞といい、鄞の人。侍郎の楊守陳の従弟である。成化二年(1466年)の進士に挙げられ、御史を授けられた。
  • 漕運を巡視し、大同の軍餉を調べ、江西を巡按したが、行く先々でその気概を憚られた。
  • 成化六年(1470年)、六事を条陳した。すなわち――郕王は危難の時に命を受けて禍乱を平定し功が大きいのに、没して「戾」と諡された。公論は不平であり、これは先帝の意ではなく権奸が私憾を晴らしたものであるから、速やかに改めて陛下の親親の仁を明らかにされたい。尚書の李秉は忠を尽くし法を守った一時の良臣だが、蕭彦莊の誣告による弾劾で致仕したので、すぐに召し還されたい。律令では公罪を犯した者は罷めないのに、近ごろ御史の朱賢・婁芳らが除名された。その官を復し、所司が律令の外で罪を加えぬよう戒められたい。西征の役では数万の甲兵で出没定まらぬ賊を討ち、千里の輸送で日を空しくしている。外患が平らがぬうちに内地が疲弊することを恐れる。速やかに班師し、辺臣には守りを慎ませたい。近例では軍官が罪を犯して判決前に赦に遇うとそのまま許されるので、この輩は引き延ばして免れようとする。今後は証拠が明白な者は律に拠って断案し、赦に遇っても免れさせないでほしい。外地の軍官の俸給や兵餉が一年以上も支給されないのは郡県の蓄えが少ないからであるから、起運の分のほかに存留を加えて欠乏を救われたい。――疏は奏されたが、当時は容れられなかった。
  • 太常少卿の孫廣が母の喪中に起復されたとき、楊守隨は給事中の李和らとともに章を連ねて論じ、服喪させることになった。
  • 成化八年(1472年)の冬、災異により時政九事を陳べた。四方が災害に遭ったので刷卷御史の派遣を停めるとの廷議が出たとき、㑹昌侯の孫繼宗が在京の分もあわせて停めるよう請うた。楊守隨は「繼宗らは情に任せて奸を働き、罪が及ぶのを恐れてこれに託して免れようとしている」と述べた。帝は繼宗を問わなかったが、刷卷は従来どおりとした。
  • 山東の飢饉のとき、廷議で吏に銀を納めさせて考課を免じ冠帯を授けることになったが、楊守隨が強く不可を説いたので、帝はただちに罷めた。
  • 應天府丞に抜擢されたが赴任前に母の憂に帰り、服喪が明けても欠員がなく、添注として職務に就いた。

中官との対立と大理寺

  • はじめ李孜省が太常寺丞を授けられたとき、楊守隨の発言によって上林監副に改められたので、これを恨んでいた。ここに至って帝に讒言し、中旨で「添注は不当」と責められ、南寧知府に左遷された。
  • 𢎞治の初め、召されて應天府尹となった。南京守備の中官である蔣琮の罪を調べたところ、蔣琮はその一味の郭鏞をけしかけ、「給事中方向の獄の審理が公正でない」と楊守隨を弾劾させ、廣西右參政に左遷された。久しくして按察使に進んだ。
  • 𢎞治八年(1495年)、召されて南京右僉都御史となり操江を提督した。両京の大理卿を歴任し、九年の任期を満たして工部尚書に進み、なお大理寺を掌った。
  • 刑部の獄で寺に覆審のため送られてきた者に拷問を加えることが多かったので、主事の朱瑬がその非を論じた。楊守隨は「永樂年間から寺には刑具が備えられている。部の囚人は多くが実情を得ていないのに、どうして改めて訊問せずにおられよう」と述べ、帝は朱瑬の奏をとりやめさせた。
  • 孝宗が崩じ、中官の張瑜らが御薬を誤用した罪で獄に下されたとき、楊守隨は会審して杖刑に処した。
  • 正徳元年(1506年)四月、楊守隨は、毎年の熱審が京師では行われるのに南京では行われないこと、五年ごとの審録が在京では詳しく在外では粗略であることはいずれも不当であるとして、その制度の改定を請い、許された。
  • 中官の李興が陵の樹木を勝手に伐って死罪と論じられたとき、家人に銀四十萬兩を出させて判決を変えさせようとしたが、楊守隨が固く守ったので獄は解けなかった。

八虎の弾劾と失脚

  • 廷臣が余塩の件で争ったとき、中旨で「これが何ほどの大事か」と詰問された。楊守隨は韓文に「まことにこれより大きな事がございます」と語り、韓文はそこで九卿とともに闕に伏して八党を論じた。
  • 韓文らが追われた後、楊守隨は憤って独り章を上げ、極言した。その趣旨は――陛下が位を継がれて以来、左右の近臣は徳意を承けず、先朝の良法をことごとく改変し、先朝の重臣をことごとく誣告して汰り、天下は嘆き苦しんで手足の置き所もなく、古今にまれな災異が数か月のうちに集中している。陛下はその理由を思われないのか。内臣の劉瑾ら八人は奸険佞巧で、誣罔と恣肆をきわめ、人は「八虎」と呼び、なかでも劉瑾がはなはだしい。日々放縦に陛下を導き、あるいは西海で鷹を掲げ□(底本欠字)を打ち、あるいは南城で険しい所を登り、禁中では鼓鉦の音が遠近に響き、宮中では火砲の音が昼夜を通じ、尊卑を混乱させ貴賤を崩し、車騎を引いて鞭を執る役をつとめ、市肆を並べて商賈のまねをし、陛下は日が高くなっても朝に出ず、漏が尽きても寝ない。この数人はさらに威権を盗み、詔旨を偽り伝えて大臣を追放し、台諫を処刑し、封章を遮り、賄賂を広く受け取り、伝奉の冗員は千百に及び、武勇を募っては子どもまで採り、紫綬金貂を爪牙の輩にことごとく与え、蟒衣玉帯を腹心の者に濫授し、自分に付く者は昇進させ、意に逆らう者は職を奪う。内外の臣僚は劉瑾を恐れることを知って陛下を恐れることを知らない。かつては二、三の大臣が遺命を受けて輔佐したが、いまはひそかに交わり黙って附いて機密を漏らす者がいる。かつては南北の群僚が心を合わせて痛憤したが、いまは策を画し文を主として時勢に阿る者がいる。そのうえ辺境の将帥をたびたび入れ替え、四方の鎮守の職を大きく改めている。何をしようというのか。そもそも太阿の柄は人に授けてはならぬのに、陛下はいま兵・刑・財賦の要地と機務根本の地をことごとく彼らに委ね、あるいは団営を掌らせ、あるいは両廠を主らせ、あるいは司礼監をつかさどらせ、あるいは倉場を督させている。大権が手中にあれば、彼らに何の憚りがあろう。かくて殺戮を行い誅求をほしいままにし、上は府蔵が尽き、下は財力が乏しく、武勇の士は辺境で疲れ、上下は讒言に苦しみ神人ともに憤っている。それでも陛下が悟らず「委任は人を得た」と言われるのは、なんと道理に背くことか。願わくは大いに乾剛を奮ってこの輩を重典に処し、遠く延熹の失を鑑とし、臣を前代の覆轍に踏ませないでほしい。――
  • 疏が入っても帝は顧みず、劉瑾らは深く恨み、旨を伝えて致仕させた。楊守隨が去ると、李興は中旨で死を免れた。
  • 劉瑾の恨みはなお解けず、正徳三年(1508年)四月、覆審で罪を軽く見逃したとして京に逮致して獄に繋ぎ、米千石を塞上に納める罰を科した。一年余りして今度は同郷人の重罪をかばったとして除名し、誥命を追奪し、さらに米二百石を罰した。楊守隨の家はたちまち破産した。
  • 劉瑾が誅されて官に復し、さらに十年して卒、年八十五。太子少保を贈られ、諡は康簡。
  • 従弟の守隅は進士から江西參政を歴任し、政績があった。寧府の禄米は一石につき銀一兩を徴していたが、のちに次第に五割増となった。守隅が入って請うと、王は旧に復するよう裁減することを許した。劉瑾は守隨を憎んで守隅の官もあわせて罷めた。劉瑾の死後、四川で起用され、廣西布政使に終わった。