明史卷一百八十六 列傳第七十四 張敷華

出自と地方官歴

  • 張敷華は字を公實といい、安福の人。父の洪は御史で、土木の変で死んだ。
  • 張敷華は若くして気節を負い、七歳のとき里社の樹が祟りをなすというので、子どもたちを指揮してすべて伐り倒した。景泰の初め、死事の者の子孫を録用する際に国学に入った。
  • 天順八年(1464年)の進士に挙げられ、庶吉士に選ばれた。成化元年(1465年)、劉大夏とともに部の曹官を望み、兵部主事に任じられて郎中を歴任した。清廉重厚で屈せず、名声は劉大夏と並んだ。
  • 成化十一年(1475年)に浙江參議として出た。景寧で鉱山の盗賊が起こり数千人に及んだが、張敷華は説諭して解散させ、その首魁十二人を捕らえた。浙江に十余年おり、布政使まで歴任した。
  • 𢎞治の初め、湖廣に遷った。凶作の年に府県に大々的に学宮を修繕させ、その賃金で飢えた者を救った。右副都御史に抜擢されて山西を巡撫したが、途中で奔喪し、服喪が明けて旧官に戻った。
  • 部内の賦税を大同に輸送する際、折価に苦しんでいたので、太原以北で車の通じる所は米のまま輸送するよう請い、民は便とした。
  • 陝西の巡撫に改まると、婚姻と喪葬の式を定めて民を礼に納めた。妖僧が終南山に拠って叛いたとき、廷議は兵を用いようとしたが、尚書の馬文升は「張都御史ならこれを処理できる」と言った。張敷華は果たして計略で僧を縛って帰った。

漕運総督から左都御史へ

  • 南京兵部右侍郎に遷り、𢎞治十二年(1499年)に右都御史に改まって漕運を總督し、あわせて淮揚諸府を巡撫した。髙郵湖の堤が崩れると深い溝を浚って水勢を殺ぎ、また寶應の堤を築いたので、民はその利に頼った。
  • 南京都察院を掌ることに改まり、吏部尚書の林瀚、僉都御史の林俊、祭酒の章懋とともに「南都四君子」と称された。そのまま刑部尚書に遷った。
  • 正徳元年(1506年)、召されて左都御史となった。その冬、大臣と言官が劉瑾らの排除を請い、内閣も力を尽くしてこれを主張したが、帝は猶予した。
  • そこで張敷華は上言した。陛下は宴楽と遊興に耽り、日ごとに佞人に馴れ、政令は詔旨と背き、行事は成憲と食い違い、天変を招き人心に背いている。いま給事中の劉□(底本欠字)、御史の朱廷聲・徐鈺らが章を連ねて論列したが、ただ所司に下されただけであり、英國公張懋と臣らが連名で請うたときも「朕が自ら処置する」と仰せられるのみで、私は嘆き惑うばかりである。時政の弊を略述すれば、四十萬の庫蔵はすでに尽きたのに取り用いてやまず、六、七歳の童子が何を知ろうに勇士として召し募られ、織造は停止し伝奉は廃したはずが元に戻り、塩法と莊田は官を遣わして調べさせている最中に願い出の疏が続き、中官で京営を監督し四方を鎮守する者は一時に何度も入れ替わり、政令は紛糾して弊害が蔓延している。そもそも国家の大事は、百人が争っても足りず、数人が壊せば十分である。願わくは陛下がよく審察されたい。
  • 疏は入ったが返答はなかった。やがて朝廷の情勢は一変し、宦官の勢いはますます強まった。
  • 除夕、朝が退けたあと突然、楊守隨とともに致仕せよとの旨が伝えられた。張敷華はその日のうちに出立し、徐州の洪(急流)で小舟が岩に触れ、溺死しかけた。
  • 劉瑾の恨みはやまず、湖廣の倉の備蓄が湿って腐っていたことにかこつけて贓罪に落とそうとした。修撰の康海が劉瑾のもとを訪れて「わが秦の人は張公を父母のように慕っている。公はどうして薄遇できようか」と言うと、劉瑾の意はやや解けたが、なお張敷華を奸党に坐せ、楊守隨らとともに朝堂に名を掲げた。
  • 翌年六月、病が篤くなると衣冠を正して家廟に拝礼し、寝台に就いて卒した。劉瑾が誅されて二年後、太子少保を贈られ、諡は簡肅。
  • 張敷華は剛直で潔癖だった。𢎞治のとき劉大夏がしばしば推薦したが、帝は「敷華はまことに佳い。ただ人となりが峻厳にすぎる」と言った。部の郎中として使いに出たとき、盗賊がその嚢を探ったが、七金があるだけだった。
  • 孫の鰲山は御史となった。