明史卷一百八十六 列傳第七十四 韓文

韓文(字は貫道、?–1526年)は洪洞の人で、宋の宰相韓琦の後裔と称する。成化二年の進士。給事中として濫殺の偽功を弾劾し、地方官・巡撫を経て武宗初年に户部尚書となった。淳安公主への賜田拡大、王府の莊田要求、残塩の増給、皇莊を管理する中官などを次々に押し返し、権幸に憎まれた。劉瑾ら「八虎」の除去を求めて九卿を率いて闕に伏したが敗れ、奸党の筆頭として掲示され、詔獄と罰米で家産を失った。劉瑾の誅後に復官し、嘉靖五年に八十六歳で没した。

年表(6件)
  • 成化二年1466年進士となり工科給事中に任じられ、韋州の軍功の偽報を弾劾する
  • 𢎞治十六年1503年吏部左侍郎から南京兵部尚書に拝される
  • 正徳元年1506年残塩の増給を廷議で退け、譚景清らの横暴を弾劾して前の命を取りやめさせる
  • 正徳二年1507年三月、奸党の掲示に尚書の筆頭として名を挙げられ、二子も籍を削られる
  • 嘉靖五年1526年卒する。年八十六。太傅を贈られ、忠定と諡される
  • 成化五年1469年のちに户部尚書を継ぐ顧佐が進士となり、刑部主事に授けられる

篇首の立伝者一覧

  • 韓文(附・顧佐、陳仁)
  • 張敷華
  • 楊守隨(附・弟の守隅)
  • 許進(附・子の誥、讚、論)
  • 雍泰(附・張津)
  • 陳夀
  • 樊瑩
  • 熊繡
  • 潘蕃
  • 胡富
  • 張泰(附・呉文度)
  • 張鼐(附・冒政)
  • 王璟
  • 朱欽

出自と初期の官歴

  • 韓文は字を貫道といい、洪洞の人。宋の宰相韓琦の後裔である。
  • 生まれるとき父が、紫衣の人が文彦博を抱いて家に届ける夢を見た。そこで名を「文」とした。
  • 成化二年(1466年)に進士となり、工科給事中に任じられた。韋州の軍功を調べ、寧晉伯劉聚・都御史王越・馬文升らが濫殺して功を偽り報じたと弾劾した。
  • ついで王越が李秉・王竑を推薦した件を論じたが、言葉が両宮(皇太后・皇后)に及んだため帝が怒り、文華殿の庭で杖打たれた。
  • のち右給事中に進み、湖廣右參議として出た。中官が太和山の造営を監督して公費を着服していたのを、韓文が力を尽くして押しとどめ、その余剰で粟一萬石に換えて賑貸に備えた。
  • 九谿の土豪が隣境と土地を争って攻め合ったとき、韓文が出向いて諭すと皆従った。七年を経て左參議に転じた。

𢎞治年間の昇進

  • 𢎞治の改元にあたり、王恕が韓文の久しく沈滞していたのを理由に山東左參政に用いた。二年後、倪岳の推薦で雲南左布政使に抜擢された。
  • 右副都御史として湖廣を巡撫し、河南の巡撫に移り、召されて户部右侍郎となった。母の喪が明けて吏部に移り、𢎞治十六年(1503年)に左侍郎から南京兵部尚書に拝された。
  • 凶作で米価が高騰したとき、韓文は軍餉三月分の先渡しを請うた。户部が難色を示すと「飢饉を救うのは火事を救うのと同じだ。罪は自分が引き受ける」と言い、廩を開いて十六萬石を出したので米価が平らかになった。
  • 翌年、召されて户部尚書に拝された。人となりは温厚純粋で常はつつましいが、大事に臨むと剛断で屈することがなかった。

户部尚書としての財政の抑制

  • 武宗即位の際、賞賜と山陵・大婚の諸費に銀百八十萬兩あまりを要したが、部の帑蔵では足りなかった。韓文はまず承運庫を開くよう請うたが、詔は許さなかった。
  • 韓文は、帑蔵が空であることを述べ、賞賜は京軍・辺軍の軍士以外は銀と鈔を分けて給し、内庫と内府の銭を少し加え、暫定的に勛戚に賜った莊田の税を借りること、承運庫の内官に蓄積した金銀を調べて帳簿に載せさせること、急を要さない費用をすべて廃することを請うた。帝は内帑を出すことを望まず、韓文に少しずつ処理させた。
  • 韓文は大局を重んじ、国のために財を惜しんだ。真人の陳應䙉、大國師の納克布嘉勒燦らが免職になると、その資産を没収して国庫に入れるよう請うた。
  • 旧制では監局・倉庫の内官は二、三人を超えなかったが、のちに次第に増員され、一つの倉に十余人、上林苑林衡署には三十二人にもなった。韓文は強く裁減を請うた。
  • 淳安公主に賜田三百頃があり、さらに任邱の民の産業を奪おうとしたが、韓文が力争してやめさせた。
  • 孝宗のとき、外戚の慶雲侯・夀寧侯の家人および商人の譚景清らが、残塩の買い足しを百八十萬引まで願い出た。韓文は塩政の積年の弊害七事を条陳し、とりわけ残塩について厳しく論じた。孝宗はこれを嘉して受け入れたが、実行に移す前に崩御した。武宗の登極の詔でこれを罷めたが、侯家がまた部に下して再議するよう乞い、韓文らが再三執奏したものの容れられず、結局は侯の願いどおりになった。
  • 正徳元年(1506年)、内閣と言官が再びこれを論じ、詔で廷議に下された。韓文は「塩法は専ら辺備のために設けたもの。いま山陝は飢饉で寇が大挙して入り、財政は逼迫し輸送も難しい。どうして祖宗の法を壊し辺防の重きを忘れてよいか」と述べた。景清がなお従来どおり陳情したので、韓文らはその横暴を弾劾して法官に付すよう請い、帝はやむなく前の命を取りやめた。
  • 榮王が霸州の莊田を乞い、崇王が莊田の租を自ら徴収して有司に関わらせぬよう請うたが、韓文はいずれも退けた。
  • 保定巡撫の王璟が皇莊の廃止を請い、廷議もこれに従ったが、帝は再議を命じた。韓文は、巡撫官に民を召して佃作させ一畝あたり銀三分を徴して内庫に納め、莊を管理する中官はすべて撤収するよう請うた。大學士劉健らも内臣の莊管理が民を擾すと力説した。そこで中官各一人と校尉十人を残し、あとは韓文の議のとおりとなった。
  • 中旨で宝石や西珠を求められたときは、珍奇なものを絶って倹徳を養うよう請い、許された。
  • 帝が大婚にあたり户部の銀四十萬兩を取ろうとしたときは、疏を重ねて四分の一を免れさせた。
  • 韓文は国家財政をつかさどること二年、権幸を抑え続けたので、権幸は深く憎んだ。

八虎の弾劾

  • このころ東宮以来の古参の宦官である劉瑾ら八人は「八虎」と呼ばれ、日々帝を犬馬・鷹□(底本欠字)・歌舞・角觝に導き、帝は万機を親らしなかった。韓文は退朝のたび僚属に語りながら涙を落とした。
  • 郎中の李夢陽が進み出て「公は大臣で、国と休戚を共にする身。ただ泣いて何になるか。諫官が宦官らを弾劾する疏を、執政が強く支持している。いまこそ大臣を率いて力争すれば、八虎を除くのは容易い」と言った。韓文は鬚をしごき肩を張り、毅然と顔色を改めて「よろしい。たとえ事が成らずとも、私はもう死んでよい年だ。死なねば国に報いられぬ」と言い、諸大臣とともに闕に伏して上疏した。
  • 上疏の趣旨は次のとおり。人主は奸を見分けることが明であり、人臣は君の怒りを冒すのが忠である。まして小人の徒党が君側に迫るのは、安危治乱の分かれ目である。近年、朝政は日に非となり号令は当を失い、秋以来は視朝が遅く、聖容も日ごとに痩せていく。人は皆、太監の馬永成・谷大用・張永・羅祥・魏彬・邱聚・劉瑾・髙鳳らが巧偽を作って上の心を淫蕩にし、毬を撃ち馬を走らせ鷹を教え犬を逐い、俳優雑劇を前に並べ、ついには万乗の君を外部の者と交易させ、狎れなれしく礼体を失わせていると言う。昼の遊びで足らず夜に及び、精神を労耗して志徳を損なう。そのため天道は序を失い地気は寧からず、雷異・星変が起き、桃李が秋に花を咲かせる。占候を考えるにいずれも吉兆ではない。この輩は君上を惑わして私利を図ることしか知らず、赫々たる天命と皇々たる帝業が陛下一身にかかっていることを思わない。大婚は済んだが儲嗣はまだ立たず、万一遊宴で神を損ない起居の節を失えば、この輩を粉々にしても何の補いになろう。髙皇帝は百戦の艱難で四海を得、列聖が継承して陛下に至った。先帝が臨終に顧命した言葉は陛下も聞かれたはずである。なぜ小人どもを姑息に左右に置いて聖徳を累わすのか。古を見れば宦官が国を誤った禍はとりわけ烈しく、漢の十常侍、唐の甘露の変がその明証である。永成らの罪悪はすでに明らかで、放置して治めなければ将来ますます憚りなく、必ず社稷の患いとなる。願わくは乾剛を奮い私愛を割き、上は両宮に告げ下は百僚に諭して典刑を正し、天地の変を回らせ神人の憤りを泄らし、禍乱の階を削って永く霊長の業を保たれたい。
  • 疏が入ると帝は驚いて泣き、食事もとれなかった。劉瑾らは大いに恐れた。
  • 当時、内閣の劉健・謝遷らは言官の章を留めて下さずにいたが、韓文の疏がさらに入ったので、帝は司禮太監の李榮・王岳らを内閣に遣わして議させ、一日に三度も往復した。劉健らはますます強く主張し、剛直な王岳だけが「閣議が正しい」と言った。
  • その夜、八人は帝の前を取り囲んで泣いた。帝は怒って王岳をその場で捕らえ詔獄に下したが、外廷はまだ知らなかった。
  • 翌日、韓文は九卿・科道を率いて再び闕に詣で力争したが、まもなく八人を宥して問わぬとの旨が出た。劉健・謝遷は倉皇として致仕して去り、八人はそれぞれ要地を占め、劉瑾は司禮監を掌握して、事態は一変した。

劉瑾による報復と晩年

  • 劉瑾は韓文を深く恨み、日々人をやってその落ち度をうかがわせた。一月あまりして偽銀を内庫に納めた者があると、それを韓文の罪とし、詔で一級を降して致仕させた。郎中の陳仁は鈞州同知に左遷された。
  • 給事中の徐昻が韓文を原官のまま留めるよう乞うと、中旨は「明らかに嘱託がある」として韓文の職を落とし、顧佐を代わりに任じ、あわせて徐昻の名籍を削った。
  • 正徳二年(1507年)三月、奸党の姓名が掲示された。劉健・謝遷のほか、尚書では韓文が筆頭で、そのほか張敷華・楊守隨・林瀚らあわせて五十三人が朝堂に列挙された。韓文の子で髙唐知州の士聰、刑部主事の士竒もともに籍を削られた。
  • 韓文が都門を出るとき、乗ったのは籃輿一つ、荷物は車一台だけであった。
  • 劉瑾の恨みは止まず、部の帳簿を紛失した罪に問うて、韓文と侍郎の張縉を詔獄に下し、数か月してようやく釈放し、米千石を大同に納める罰を科した。ほどなく再び米を罰せられ、家産は蕩尽した。
  • 劉瑾が誅されると官に復し、致仕した。世宗が即位すると行人を遣わして璽書で見舞い、羊と酒を賜い、有司に月ごとの廩四石と年ごとの役夫六人を終身給させた。さらに太子太保を加え、孫一人に光祿寺署丞の廕を与えた。
  • 嘉靖五年(1526年)に卒、年八十六。太傅を贈られ、諡は忠定。
  • 子の士聰は挙人で、罷官の後は再び仕えなかった。士竒は進士で湖廣參政に終わった。末子の士賢も挙人から開封同知となった。孫の廷瑋は進士で行太僕卿となった。

顧佐

  • 顧佐は字を良弼といい、臨淮の人。成化五年(1469年)の進士で、刑部主事に授けられ郎中を歴任した。錦衣指揮の牛循、中官の顧雄・鐘欽の罪を調べ、屈することがなかった。
  • 河間知府として出、𢎞治年間に再び遷って大理少卿となり、右僉都御史に抜擢されて山西を巡撫した。宗室の邸宅を官が費用を惜しまず修繕していたのを、すべて自弁させるよう請うた。
  • 正統末に臨時に太原・平陽の民を辺境の戍に発したまま、久しく交代がなかったのを、奏して交代させた。
  • 入って左副都御史となり、遼東總兵官の李杲、太監の任良、巡撫の張玉を調べて罷めさせた。户部左右侍郎を歴任し、陝西に出て軍糧を管理し、備蓄をよく差配して三年分の余剰を出した。
  • 正徳の改元にあたり韓文に代わって尚書となった。劉瑾は韓文を恨んで何かと言いがかりをつけ、部に古い冊が失われていたのを韓文の罪にしようとして顧佐に上申を迫ったが、顧佐は応じなかった。事に坐して三か月の俸を奪われ、顧佐は重ねて疏を上げて帰郷を乞い、許された。
  • 劉瑾の恨みはやまず、三度にわたって米を塞上に納めさせ、あわせて千余石に及んだ。家が貧しく借財して償った。卒して太子太保を贈られた。

陳仁

  • 陳仁は字を子居といい、莆田の人。成化末の進士。𢎞治年間に户部郎中となった。
  • 闕里の先聖廟が火災に遭ったとき、修省を請う疏を上げた。陝西が古い璽を献上したときは、疏を上げてその偽であることを斥けた。詔で番僧の琳沁扎勒を四川に召したときは疏を上げて諫めた。また建文の忠臣である方孝孺らの官を復すよう請うたが、多くは阻まれて行われなかった。
  • 正徳の初め、劉瑾が□(底本欠字)銀の事で尚書の韓文を罪に落としたとき、陳仁もともに謫された。のち劉瑾が誅されると、累進して浙江右布政使に至った。