地方官としての治績
- 樊瑩は字を廷璧といい、常山の人。天順末に進士に挙げられたが、病と称して帰り親を養った。久しくして行人を授けられ、蜀への使いで土官の贈り物を受けなかったので、土官は「却金亭」を建ててこれを記した。
- 成化八年(1472年)、御史に抜擢された。山東で盗賊が起こると、命を受けてその首魁を捕らえた。江北で軍籍を整理し、条奏したことの多くが例とされた。
- 雲南の巡按に改まったとき、交阯が辺民を誘って寇にしようとしたので、檄を飛ばしてその企てを止めた。
- 松江知府として出た。運夫が目減り分の負担に苦しんでいたので、樊瑩は民夫を廃して糧長に専ら運送させ、その代わり負担を寛くして優遇した。賦役は周忱の旧法に従いつつ少し変通したので、民の困窮は大いに癒えた。
- 憂で帰り、平陽知府となった。𢎞治の初め、詔で大臣に方面官を挙げさせたとき、侍郎の黄孔昭が樊瑩を挙げ、尚書の王恕も器量を認めて、河南按察使に抜擢された。
- 黄河の水害で民が多く流散したので、樊瑩は巡回して賑済し、多くを救った。河南の田賦には積年の弊が多く、巡撫都御史の徐恪がその本末を調べようとしたが皆が難色を示した。樊瑩は「萬を千と見、千を百と見ればよい。何の難しいことがあろう」と言った。徐恪が樊瑩に委ねると、部下の吏を使って調べ上げ、十日ほどで積年の弊がすっかり清まった。
應天府尹から刑部尚書へ
- 𢎞治四年(1491年)、應天府尹に遷った。守備中官の蔣琮が言官と訐き合い、巻き添えで罪に落とされた者が多かった。樊瑩は命を受けて審理したが、初めは何ごともないように振る舞ったので蔣琮は大いに喜んだ。のちに蔣琮が孝陵の山脈を傷つけた件を奏したので、蔣琮は獄に下されて淨軍に充てられた。
- 𢎞治七年(1494年)、南京工部右侍郎に遷り、ほどなく右副都御史に改まって湖廣を巡撫した。錦田の賊が両廣の猺・獞と結んで寇をなしたが、樊瑩は残党を諭して解散させ、首謀者十八人を誅した。
- 一年余りして病により休職を乞い、家に七年いた。中央地方からの推薦が相次いで、もとの官で起用され鄖陽を撫治し、まもなく南京刑部右侍郎に改まった。
- 𢎞治十六年(1503年)、雲南の景東衛で昼が七日暗くなり、宜良で雷のような地震があり、曲靖で大火がたびたび起こり、貴州でも災異が多かったので、樊瑩に巡視が命じられた。着任すると鎮守・巡撫の官の罪を弾劾し、職務に堪えない文武官千七百人を罷めた。景東の異変については、指揮の呉勇が官帑を横領し罪を逃れようとして、雲霧で暗くなったのに乗じて事を誇大に言い立てたものであることを調べ上げ、その罪を弾劾した。
- 還って本部の尚書に進んだ。武宗が即位すると致仕して帰った。劉瑾は隆平侯の襲爵争いの会同審理の件で樊瑩を巻き込み、籍を削った。
- 正徳三年(1508年)十一月に卒、年七十五。翌年、さらに松江の官布を減らした件に坐して米五百石を辺に納める罰を受けた。樊瑩はもとより貧しく、これでいっそう窮した。劉瑾が敗れて官に復し、太子少保を贈られ、諡は清簡。
- 樊瑩は誠実で、農繁期には籃輿に乗り笠をかぶって子孫に担がせ田の間を行き、「ただ稲を見るためではない。子孫に労を習わせたいのだ」と言った。その子孫は教えをよく守り、実直で学に励む者が多かった。