明史卷一百八十四 列傳第七十二 張元禎

出自と憲宗朝の建言

  • 張元禎は字を廷祥といい、南昌の人である。五歳で詩をよくし、寧靖王が召見して元徴と名づけた。巡撫の韓雍はこれを重んじ、「人の瑞である」と言って元禎と改めさせた。
  • 天順四年(1460年)の進士に挙げられ、庶吉士に改められ、編修を授けられた。憲宗が即位すると、疏を上げて三年の喪を行うよう請うたが、取り上げられなかった。
  • その年の五月、疏を上げて三事を陳べた。
  • 一つは講学に勤めること。寒暑にも中断せず、講ずるところは必ず徳を修め治を行う実に即したものとし、乱亡の事に触れることを忌み憚らないでいただきたい。講が終わったら、さらに神を凝らし静かに味わい、身心と政化において検証されたい。講官は大臣に剛毅・明察で正大な人を公に推挙させ、官職の大小にこだわらないでいただきたい。
  • 一つは公に政を聴くこと。日々文華殿に出御し、午前は進講、午後は聴政とし、天下の章奏は諸臣に詳議させて面と向かって可否を陳べさせ、陛下がみずから臨んでその是非を決されたい。暇があれば五品以下の官を召し、思うままに時事の得失・利害を問い、下情がすべて達するようにされたい。
  • 一つは賢者の用い方を広げること。給事中・御史にそれぞれ両京の堂上官の賢否を陳べさせ、なお尽くせないなら在京の五品官にも指摘を許し、それを進退の基準とされたい。また、徳望ある者を共同で推薦させて去った者の位に代えれば、大臣はみな適任の人を得る。そのうえで彼らにそれぞれ属僚および地方・郡県の官の賢否を述べさせ、内閣と吏部に付して昇進・罷免を行われたい。内外の群臣で剛正・敢言の者を臺諫に挙げ、その言葉づかいや容貌、官職、出身を問わないでいただきたい。ただし堂上官に委ねるべきではない。彼らはその剛直を憚って柔順・追従の者を推薦して員数を埋める恐れがあり、推された者は推薦の恩に感じてその非を直言できなくなる。だからこそ古くは大臣が臺諫を推挙しなかったのである。
  • 疏が入ったが、言うところに障害が多く実行しがたいとして留め置かれた。
  • 『英宗實録』の編纂に加わったが、執政と議が合わず、病と称して郷里に居り、性命の学を講究した。二十年を経て内外から交々推薦があったが、いずれも赴かなかった。

孝宗・武宗朝と晩年

  • 𢎞治の初め、召されて『憲宗實録』を修め、左贊善に進んだ。上言して言った。人君が王道を行うことを心としないのは、大いに為すところある君主ではない。陛下は東宮で徳を育まれ、すでに大いに為すところあるという期待を負っておられる。ところが近ごろは異端を崇め近臣を寵愛してこの心を蝕み、財貨を殖やし玩好に耽ってこの心を荒らし、寵幸の門を開き言路を塞いでこの心を暗くしている。それでは大いに為すことはできない。聖なる志を定め、聖なる学を一にし、聖なる智を広められたい、と。疏は繰り返し述べて万言に及び、帝はかなり容れた。
  • 実録が完成すると南京侍講學士に遷り、母を養うために帰った。久しくして『會典』の副總裁として召され、着任すると學士に進み、経筵日講官に充てられた。帝は深く傾倒した。元禎は身体が痩せて背丈も並より低かったので、帝は特に低い几を設けて講を聴いた。数か月で母の喪により去った。
  • 喪が明けて南京太常卿に遷った。その後、『通鑑纂要』を修めることになり、また召されて副總裁となり、もとの官で學士を兼ね、詹事府を掌ることに改められた。
  • 帝は晩年に徳がいよいよ進んだので、元禎は経筵で『太極圖』『通書』『西銘』などの書を加えて講ずるよう請うた。帝はしきりに取り寄せて読み、喜んで「天がこの人を生んで朕を啓いたのだ」と言い、大いに用いようとしたが、まもなく崩御した。
  • 武宗が立つと、吏部左侍郎兼學士に抜擢され、東閣に入って誥敇の起草をもっぱらとした。元禎はもとより高い名声があったが、郷里に居ることが久しく、遅れて再び出仕したので、館閣の人々はみな後輩であった。彼らは元禎の言論や態度を迂遠と考えて嘲笑する者が多く、また名位が互いに競り合ったので、誹謗が高まり、言官は交々上章して元禎を弾劾した。元禎は七度も疏を上げて辞職を乞い、劉健が力を尽くして庇った。劉健が去ると、元禎もまた没した。天啟の初め、文裕と追諡された。

陳音――附伝

  • 陳音は字を師召といい、莆田の人である。天順の末の進士で、庶吉士に改められ、編修を授けられた。
  • 成化六年(1470年)三月、災異にちなんで時政を陳べて言った。□学(底本欠字)は問うことを好むより先なるものはない。陛下は時に経筵に臨まれるが、身分の隔たりが厳しく、上は疑いがあっても問わず、下は見識があっても述べられない。儒臣を引いて便殿に坐を賜り、ゆったりと諮問して聖聡を啓かれたい。異端は正道の反対であるから、法王・佛子・真人は一切退けて帰すべきである、と。章は禮部に下された。
  • 数日後、また奏した。国家が士を養って百年、用いるに足る者を求めても多くは得られない。致仕した尚書の李秉、郷里にいる修撰の羅倫、編修の張元禎、新會の挙人である陳獻章は、いずれも当世の人望である。李秉らを召し返し、陳獻章を臺諫に置くべきである。言官の多くは口を閉ざしているので、判官の王徽、評事の章懋らを召し返して言路を開いていただきたい、と。旨に逆らって厳しく責められた。
  • 司禮太監の黄賜の母が死んだとき、廷臣はみな弔問に赴いたが、翰林は行かなかった。侍講の徐瓊が衆に諮ったところ、陳音は大いに怒って「天子の侍従の臣が連れ立って宦官の家に拝礼して、清議に対してどうするのか」と言った。徐瓊は恥じて取りやめた。
  • 任期が満ちて侍講に進んだ。汪直の一味である韋瑛が夜に巡邏の兵を率いて兵部郎中の楊士偉の家に入り、楊士偉を縛って拷問し、その妻子にまで及んだ。陳音は隣家であり、塀に登って大声で「お前たちは勝手に朝臣を辱め、国法を畏れないのか」と叫んだ。相手が「お前は何者だ。西厰を畏れないのか」と言うと、陳音は声を励まして「私は翰林の陳音だ」と言った。
  • 久しくして南京太常少卿に遷った。劉吉が父の喪から起復したとき、陳音は書を送って固辞するよう勧めたので、劉吉は不快であった。のちに吏部が陳音を用いようとすると、劉吉はそのたびに阻んで「腐儒だ」と言った。このため十年のあいだ転任できなかった。かつて守備の中官と事を争って弾劾されたが、最後には正しさが認められた。𢎞治五年(1492年)に劉吉が罷免され、ようやく太常寺卿に進んだ。二年を越えて没した。
  • 陳音は経術を身につけ、士でその門に遊ぶ者が多かった。ただし性質は忘れっぽく、世故や細かな事はまるで分からなかった。世人は彼を愚かとする話を多く付会して笑い話にしたが、すべてが事実というわけではない。