明史卷一百八十四 列傳第七十二 傅瀚

礼部尚書と秦璽の献上

  • 傅瀚は字を曰川といい、新喩の人である。天順八年(1464年)の進士で、庶吉士に選ばれ、檢討に任じられた。学を好み記憶が強く、詩文に長けた。再び遷って左諭德となり、東宮で直講した。
  • 孝宗が即位すると太常少卿兼侍讀に抜擢され、禮部の左侍郎・右侍郎を歴任し、まもなく學士を兼ねて東閣に入り、誥敇の起草をもっぱらとし、あわせて詹事府の事を掌った。
  • 𢎞治十三年(1500年)、徐瓊に代わって禮部尚書となった。保定が白い鵲を献じたときは、疏を上げて退けた。
  • 陝西巡撫の熊翀が、鄠縣の民が得た玉璽を献じ、秦の璽が再び出たとした。傅瀚は同僚を率いて言った。秦の璽の完存と破損は文献に記されている。今、献じられた璽は形・色・篆刻・鈕のいずれも似ていない。おそらく後人が模造したものである。しかも帝王が天命を受けるのは徳によるのであって璽によるのではない。太祖が六璽を作り、列聖が相承けて百三十余年、天の恵みはいよいよ至っている。受命の符が秦の璽にないことは明らかである。しばらく内府に収めておかれたい、と。帝はその言を是とし、璽を得た者にわずかな賞を与えた。
  • 京師で星の変・地震・雹があり、四方に変異が多かったので、傅瀚は軍民にとって不都合なものを条上し、みずから節倹を行って天下に率先されるよう請うた。光祿寺が行戸(御用商人)に対して滞納した物価が四万余両に達したとき、傅瀚は、供応の濫費に由来するものであるから、質素を旨として無駄な費用を生じさせないようにされたいと述べた。条奏したところはおおむね正しい議論に沿っていた。
  • 𢎞治十五年(1502年)に没した。太子太保を贈られ、文穆と諡された。