明史卷一百八十四 列傳第七十二 楊守陳
楊守陳(字は維新、?–1489年)は鄞の人。景泰二年の進士で編修から経筵講官・侍講學士を歴任し、『英宗實録』『宋元通鑑綱目』の編修に加わった。『文華大訓』を編むにあたり宦官の事を削らず善悪得失をことごとく載せた。孝宗が東宮のときの講官で、即位後は吏部右侍郎となり『憲宗實録』の副總裁を務めた。𢎞治改元の正月に堯舜の道に基づく長篇の上疏を奉り、小経筵の開設と午朝の復活、大臣との面議を説いて容れられた。弟の守阯、子の茂元・茂仁もそれぞれ名を成した。
年表(8件)
- 景泰二年1451年進士に挙げられ、庶吉士から編修を授けられる
- 𢎞治元年改元の正月に上疏し、小経筵と日に二度の臨朝を請うて嘉納される
- 𢎞治二年1489年没する。文懿と諡され、禮部尚書を贈られる
- 成化十四年1478年弟の守阯が進士に及第して編修を授けられ、のち南京侍讀に出される
- 𢎞治十年1497年弟の守阯が學士は吏部の考察に与らぬよう請い、許される
- 成化十一年1475年子の茂元が進士となり、刑部主事を授けられる
- 𢎞治七年1494年子の茂元が張秋の治河をめぐり中官李興らの召還を奏し、詔獄に下される
- 正德四年1509年茂元が劉瑾の求める賄賂を拒み、致仕を強いられる
出自と東宮講官
- 楊守陳は字を維新といい、鄞の人である。祖父の範は学識と徳行があり、かつて守陳に精密に思索し実践する学問を教えた。景泰二年(1451年)の進士に挙げられ、庶吉士に改められ、編修を授けられた。
- 成化の初め、経筵講官に充てられ、侍講に進んだ。『英宗實録』が完成すると洗馬に遷り、まもなく侍講學士に進み、『宋元通鑑綱目』の修撰に加わった。母の喪が明けるともとの官で起用され、孝宗が出閣すると東宮の講官となった。
- 当時『文華大訓』を編むにあたり、宦官に関わる事はすべて採録しなかったが、守陳はそれではいけないとして、その善悪・得失をことごとく列挙した。書が完成すると少詹事に進んだ。
- 孝宗が即位すると、東宮の僚属はみな昇進した。執政は守陳を南京吏部右侍郎に擬したが、帝は筆を執って「南京」の二字を削った。左右の者が劉宣が現に右侍郎であると言ったので、帝は劉宣を左侍郎に改め、守陳を右侍郎とした。『憲宗實録』の修撰では副總裁を務めた。
𢎞治元年の上疏
- 𢎞治と改元された正月、上疏して言った。
- 孟子は「堯舜の道でなければ王の前で述べない」と言った。堯舜の道とは何か。『書』に「人心は危うく、道心は微かである。ただ精しく、ただ一にして、まことにその中を執れ」とある。これが堯舜が内に得たところが深く、政を出す根本であった。四岳に諮り、四門を開き、四方に目を明らかにし、四方に耳を通じた。これが堯舜が外に資したところが博く、治を致す綱であった。
- 臣はかつて東宮の僚属を忝くしたが、陛下が経書を朗読されるとき、熱心に問いを発して聖賢の奥旨を究めることがなく、儒臣が訓詁を略述しても、詳説を進めて帝王の要道を極めることがなかった。これは陛下が内に得られたところがまだ深くない。
- 今、朝に臨んで接見されるのは大臣の風采だけであり、君子と小人の実情、小臣・遠臣の才と行いをどうして知れようか。朝を退いて披閲されるのは百官の章奏だけであり、諸司の規則、群吏の弊害をどうして見られようか。宮中で聴き信じられるのは内臣の言葉だけであり、百官の正論、万民の多様な声をどうして聞かれようか。恐らく陛下が外に資されるところはまだ博くない。
- 祖宗の旧制に従い、大小の経筵を開き、日に二度朝に臨まれたい。大経筵と早朝は従来の儀のとおりでよいが、小経筵では必ず端正・方正で博学・雅正な臣を選んで交代で進講させ、明らかでないところは必ず問い質されたい。聖賢の経旨、帝王の大道から人臣の賢否、政事の得失、民情の苦楽まで、必ず講じて疑いをなくし、そのうえで篤く行えば弊がない。
- 前朝の経籍、祖宗の典訓、百官の章奏はみな文華殿に置き、陛下は朝を退いてから披覧し、毎日、内閣から一人、講官から二人を前殿の右廂に控えさせ、疑問があれば問い、はっきり分かるまで究められたい。一日のうち文華殿にいる時が多く乾清宮にいる時が少なければ、欲は寡く心は清く、政に臨んで惑わず、内に得るところが深まって政を出す根本が立つ。
- 午朝は文華門に出御し、大臣・臺諫が交代で侍し、すでに疏を具した事は掲帖で要点を口頭で奏し、陛下が詳しく問うて裁決されたい。地方から来朝する文武の官には地方の事を条列させ、要点を口述させて諸司に評議させ、辞して赴任する者にはその職務に応じて訓戒されたい。大政があれば文華殿に出御し、大臣にそれぞれ謀を尽くさせ、互いに責任を押しつけ合わせず、当を得ないときは言官に駁正を許されたい。その他、疏を具して進める者は閣臣を召して可否を面議し、そのうえで批答されたい。奏事や辞朝の諸臣には必ず言葉と表情を和らげ、詳しく問い広く尋ねて下情を尽くさせ、賢才を常に目の前に置き、視聴が左右に偏らないようにして、天下の耳目を合わせて聡明とすれば、外に資するところが博くなり、治を致す綱が挙がる。
- もし経筵も常朝もただ形式をなぞるだけで、あらゆる章奏を内臣に付して文言も批答も任せるなら、臣は積年の弊が改まらず後患がいよいよ深まることを恐れる。
- しかも今の積弊は数え切れない。官には廉恥の風が乏しく、士には浮薄・競争の習いが多い。教化は衰え、刑禁は緩み、風俗は奢って財は乏しく、民は困窮して盗賊は日ごとに増える。諸衞の城池は修まらず、諸郡の倉庫には蓄えが乏しく、甲兵は朽ちて鈍り、部隊は空虚で、将は驕り怠って兵を知らず、士は疲れ弱って戦に習わない。ひとたび警報があれば何をもって防ぐのか。これが臣が朝夕憂え思い、寝食を忘れるほどである所以である。
- 帝は深く嘉納した。のちにはたして午朝が復され、大臣を召して政事を面議するようになったのは、みな守陳から発したものである。
- まもなく史書編纂の事が繁多であるとして部務の免除を乞い、三度上章してようやく本官のまま詹事府を兼ね、もっぱら史館の事にあたることとなった。𢎞治二年(1489年)に没し、文懿と諡され、禮部尚書を贈られた。
楊守阯(楊守陳の弟)――附伝
- 守阯は字を維立という。成化の初め、郷試に首席となって国学に入った。祭酒の邢讓が獄に下されて死んだとき、六館の学生が闕下に伏して冤を訴えた。
- 成化十四年(1478年)の進士及第で、編修を授けられた。任期が満ちても、先例では留都(南京)に遷る者はなかった。ところが従兄の守隨が李孜省に追われ、あわせて守阯をも追い出そうとしたので、南京侍讀とされた。
- 𢎞治の初め、召されて『憲宗實録』を修め、経筵に出仕し、再び遷って侍講學士となった。給事中の龎泮らが知州の劉遜を救おうとしてみな獄に下されたとき、吏部尚書の屠滽が他の官を遣わして代行させるよう奏したので、守阯は書を送って屠滽の失を厳しく責めた。
- 𢎞治十年(1497年)、京官の大規模な考課があった。守阯はそのとき翰林院の事を掌っており、言った。臣および詹事府を掌る學士の王鏊はいずれも吏部の考察を受けるべきであるが、臣らにはそれぞれ属僚がいる。進んで吏部と会して属僚を考課するときは堂上に坐し、退いて自分の考課を受けるときは階下で待たねばならない。本朝は學士を優遇し、慶成の宴に侍るときの班は四品より上、車駕が国子監に臨むときは彞倫堂に坐して三品に準ずる。これが先例である。今、四品が考察に与らない以上、學士もまた与るべきではない。臣らの職は講読と撰述であり、その適否は聖鑒によるもので、考察を待つまでもない、と。詔で許された。學士が考察に与らないのは守阯から始まる。
- 『會典』を修めて副總裁を務め、まもなく南京吏部右侍郎に遷った。かつて兵部を代行して時弊五事を陳べ、国子監の代行に移った。考績のため都に入ったとき、『會典』がまだ完成していなかったので、そのまま留められて總裁となり、事が終わって左侍郎に遷り、任地に戻って二階級を進められた。
- 武宗が立つと、高齢を理由に辞職を乞い、返答を待たずについに帰郷した。詔によって尚書を加えられて致仕した。劉瑾が政を乱すとその加官を奪ったが、劉瑾が敗れると復された。久しくして没した。
- 守阯は群書を極めて広く読み、兄の守陳に師事し、学問も行いも兄に匹敵した。解元・學士・侍郎となったのも兄と同じであり、また両京の翰林院を相次いで掌ったので、人はことに賞賛した。守陳が没すると、守阯は位牌を設けて三年のあいだ哭して祭った。
楊茂元(楊守陳の子)――附伝
- 茂元は字を志仁という。成化十一年(1475年)の進士で、刑部主事を授けられ、郎中を歴任し、出て湖廣副使となり、山東に改められた。
- 𢎞治七年(1494年)、黄河が張秋で決壊し、詔によって都御史の劉大夏に治めさせたが、さらに中官の李興、平江伯の陳銳を続いて派遣した。李興は威圧的で残虐、按察使を縛って辱めた。茂元は按察司の事を代行しており、奏して言った。治河の役は官が多くて責任の所在が定まらず、担当の役所は接待に日々百金を費やしている。諸臣が初めて河を祭ったとき、空は曇り、帛は燃えず、焼け残ったものは人の顔さながらで耳・目・口・鼻が揃っており、見る者は驚いた。鬼神が怪を示したのは偶然であろうか。李興・陳銳らを召還し、もっぱら劉大夏に委ねれば功は必ず成る。しかも水は陰の象である。今、后の外戚の家は威権が強すぎ、その名を借りて貪欲・横暴を働く者は数えきれない。禁令を加えて変異を消すよう請う。画工・技芸の者はことごとく放ち帰すべきである。山東にはすでに内臣の鎮守がいるのに、さらに李全を臨清に鎮守させている。撤収させるべきである、と。
- 疏が入ると山東の巡撫・巡按に取り調べて奏させたところ、帛が焼けたときの異変は実際にあったが、接待の費用の奏上は事実より誇張が多いと述べた。そこで李興・陳銳は続けて上章して茂元を妄言と弾劾し、詔によって錦衣百戶の胡節が遣わされて逮捕した。父老は道を遮って胡節に訴え、「楊副使を返してくれ」と乞うた。参内して見えたとき、茂元は長跪したまま罪に服さなかったので、帝は怒って詔獄に下した。胡節は中官たちを訪ね歩いて父老が冤を訴えた様子を詳しく語り、中官の多くは心を動かされた。ちょうど言官が交々救ったので、刑部は贖罪の杖刑で復職と擬したが、特に長沙同知に移された。病と称して帰郷した。
- 久しくして安慶知府に起用され、廣西左參政に遷った。正德四年(1509年)、劉瑾が御史の孫迪を遣わして銭穀を照合させ、賄賂を求めたが与えなかった。劉瑾はまた茂元の従父である守隨を憎んでいたので、ついに致仕を強いた。劉瑾が誅されると江西で起用され、まもなく雲南左布政使に遷り、右副都御史として貴州を巡撫し、南京都察院に移り、刑部右侍郎で終わった。
楊茂仁(楊守陳の子)――附伝
- 茂仁は字を志道という。成化の末の進士で、刑部郎中を歴任した。遼東鎮守中官の梁玘が弾劾されたとき、給事中とともに調査に赴き、その罪をことごとく明らかにした。四川按察使で終わった。