篇首の立伝者一覧
- 周洪謨
- 楊守陳(弟の守阯、子の茂元・茂仁を附伝する)
- 張元禎(陳音を附伝する)
- 傅瀚
- 張昇
- 吳寛
- 傅珪
- 劉春
- 吳儼
- 顧清
- 劉瑞
出自と経世の建言
- 周洪謨は字を堯弼といい、長寧の人である。正統十年(1445年)の進士及第で、編修を授けられた。見聞が広く記憶が強く、文詞に長け、本朝の典故に通じ、経世済民を論ずることを好んだ。
- 景泰元年(1450年)、疏を上げて帝にみずから経筵に臨み政務を聴くよう勧め、あわせて時務十二事を陳べた。再び遷って侍讀となった。天順二年(1458年)、南京翰林院の事を掌った。
- 憲宗が即位すると、あらためて時務を陳べた。人君が国を保つ道には三つある。聖学に力を尽くすこと、内治を修めること、外侮を防ぐことである。聖学に力を尽くす条目は一つ、心を正すこと。内治を修める条目は五つ、真の人材を求めること、不肖の者を退けること、忠良を表彰すること、冗職を廃すること、漕運を憐れむこと。外侮を防ぐ条目は六つ、将帥を選ぶこと、士卒を練ること、陣法を講ずること、兵器を整えること、兵糧を足すこと、辺境を安んずることである、と。帝は嘉して容れた。
国子監と礼制の改正
- 成化と改元されると、廷議は四川の山都掌蠻の討伐を論じた。洪謨は方略六事を上申し、詔によって軍の帥に付して実行させた。學士に進み、まもなく南京祭酒となった。
- 上言して、南京の国子監には紅板倉二十間があり、高皇后が粟を積んで妻子を抱える監生を養った所であるから、修復すべきだと述べ、帝は許可して実行させた。
- 母の喪が明けて北京の国子監に移った。成化十一年(1475年)、士風が軽薄・浮ついていると述べ、洪武年間の学規を復するよう請うた。帝は嘉納し、禮部に命じて掲示・布告させた。崇信伯の費淮が国子監に入って礼を習うことになりながら長く出仕しなかったので、洪謨は弾劾し、冠帯を奪って儒巾姿で監に出仕させ、年俸の半分を停めた。学政は粛然とした。
- 先聖(孔子)の像は冕旒十二を用いているのに、舞の佾数や豆・籩の数がそれに釣り合っていなかったので、洪謨は天子の制を備えるよう請うた。また言った。古くは鳴球・琴・瑟を堂上の楽とし、笙・鏞・柷・敔を堂下の楽とし、干と羽の舞は両階で舞った。今は羽の舞が上にあり楽器が下にあって古制ではない。改めるべきである、と。尚書の鄒幹が反対して止めたが、洪謨は再び疏を上げて争い、帝はついにその議を採った。
- 禮部右侍郎に遷り、久しくして左侍郎に転じた。蔡沈の伝で解された璿璣玉衡は、後人がその制に従って作っても検証すると合わないことが多かったので改製すべしとされ、帝はただちに洪謨に委ねた。洪謨は木で作り替え、十日で完成させた。
- 成化十七年(1481年)、尚書に進み、二十年(1484年)に太子少保を加えられた。二十一年(1485年)、星の変にちなんで条奏したところ、帝は多く採納した。
- 𢎞治元年(1488年)四月、天夀山で雷・風・雹があり、楼殿の瓦や獣頭の飾りが多く壊れた。洪謨は重ねて反省・修徳を強く勧め、帝は深く容れた。
- 洪謨は謹厳で人と合うことが少なかったが、萬安と同郷であり、萬安が政府にあったころはかなり親しかった。このため言官が前後して論奏し、致仕して帰った。さらに三年して没した。享年七十二。文安と諡された。
- 洪謨はかつて言った。士人が仕えて郷里を数千里も離れれば、土地の風俗にも暗く人情にも背く。近い地で選任するにしくはない。王府の官が終身昇進しないのは祖制に背いており、少し改めるべきである。都掌蠻および白羅羅の舁子はしばしば叛くので、特に長官司を設けてその地の者を選んで任じれば、後患はなかろう、と。没しようとするときも、なお中国を安んじ四夷を定める十事を上申した。その建言を好むことはこのようであった。