明史卷一百八十二 列傳第七十 馬文升

馬文升(字は負圖、?–1510年)は鈞州の人。景泰二年の進士。陝西巡撫として満四の乱を平らげ、黒水口・湯羊嶺に寇を破るなど辺功が盛んであった。遼東では中官汪直・巡撫陳鉞と争って詔獄に下され重慶衞に流されたが、汪直の失脚後に復官。孝宗朝には兵部尚書として十三年にわたり軍政を掌り、賦役の重さと辺軍の疲弊を極言して信任を得、のち吏部尚書に至った。正徳の初め中官の専横に抗して致仕し、劉瑾に名を削られたまま八十五歳で没した。

年表(9件)
  • 景泰二年1451年進士に登り、御史を授けられて山西・湖廣を巡按する
  • 成化九年1473年子の琇を遣わして功を報じたが、奏上が事実と違うとされ俸を三か月停められる
  • 成化十一年1475年王越に代わって三邉の軍務を総制し、まもなく兵部右侍郎となる
  • 成化十四年1478年遼東の変乱鎮定に派遣され、璽書を宣べて撫慰し帰順させる
  • 成化十九年1483年汪直が失脚し、詔獄・流謫から復官する
  • 成化二十一年1485年右都御史として漕運を総督し、冬に兵部尚書に召される
  • 𢎞治元年1488年左都御史として諸廟に埋めた呪詛の具を毀つよう請い、容れられる
  • 正徳元年1506年中官王瑞の請う詔を奉ぜず、御史何天衢に弾劾されて辞職を許される
  • 正徳五年1510年六月に没する。享年八十五。のち太傅を贈られ端肅と諡される

出自と陝西の軍功

  • 馬文升は字を負圖といい、鈞州の人である。容貌は偉大で力が強かった。景泰二年(1451年)の進士に登り、御史を授けられ、山西・湖廣を巡按して風紀の裁断ぶりが著しかった。帰任して諸道の章奏を掌った。母の喪が明けると、飛び級で福建按察使となった。
  • 成化の初め、召されて南京大理卿となったが、父の喪で帰郷した。満四の乱が起こり、陝西巡撫の陳价が獄に下されると、喪家から起用されて右副都御史となり陳价に代わった。急ぎ軍に至り、総督の項忠とともに討ち平らげた。この事は項忠の伝に詳しい。功を録して左副都御史に進み、巡撫はもとのままであった。
  • 馬文升はたびたび便宜を条奏し、将を選び兵を練ることに努め、安邉營から鐵鞭城まで烽火台を修めた。手強い賊を除き、西固の番族で命に服さぬ者はことごとく滅ぼした。茶の政策を整えて番馬八千余頭と交換し、士卒に給した。鞏昌・臨洮の飢民を救い、流民を安撫して功績が著しかった。
  • このころ博勒呼們都埒伽嘉色凌が毎年のように辺境を侵した。馬文升は韋州に兵を駐め、諸堡に伏兵を置いて待った。かくて黒水口で寇を破ってその平章の徳埒蘇を捕らえ、また湯羊嶺で破って二百級を斬り、その嶺を得勝坡と名づけ、石に刻んで記して還った。
  • 馬文升の軍功ははなはだ盛んであったが、戦勝の報告に誇張がなく、朝廷にこれを後押しする者もいなかったので、賞は少なかった。
  • 成化九年(1473年)冬、総制の王越が大勝を奏し、馬文升も子の琇を遣わして功を報じたが、廷臣が調査して奏上が事実と違うとされ、俸を三か月停められた。
  • 成化十一年(1475年)春、王越に代わって三邉の軍務を総制し、まもなく入って兵部右侍郎となった。

遼東と汪直・陳鉞との抗争

  • 翌年八月、遼東の軍務を整飭した。巡撫の陳鉞は貪欲で狡猾、将士のわずかな過失にもすぐ馬を罰として出させたので、馬の値が高騰した。馬文升は辺境の計十五事を上申し、あわせてこれを禁ずるよう請うた。陳鉞はこれによって馬文升を恨んだ。馬文升は部に戻って左侍郎に転じた。
  • 成化十四年(1478年)春、陳鉞が無関係の者を殺して功を偽り、そのため変乱を招くと、中官の汪直はみずから赴いて鎮定しようとした。帝は司禮太監の懐恩ら七人に内閣へ行かせ、兵部と合議させた。懐恩は大臣を遣わして鎮撫させ汪直の下向を阻もうとした。馬文升はすかさず「よろしい」と応じた。懐恩が入って帝に申し上げ、ただちに馬文升の派遣が命じられた。汪直は喜ばず、自分の腹心である王英を同行させようとしたが、馬文升は謝絶した。
  • 急ぎ鎮に至り、璽書を宣べて撫慰したので、帰順しない者はなかった。また、先に額森の乱で官を授ける璽書を失った十余人が官を襲えるよう請い、認められた。
  • 事が収まると汪直はその功を横取りしようとし、帝に請うて王英を伴って開原に馳せつけ、あらためて招撫の令を下した。馬文升は功を汪直に譲ったが、汪直は内心恥じた。しかも馬文升は汪直と対等の礼をとり、その左右の者を奴僕のように扱ったので、汪直はいよいよ喜ばなかった。陳鉞はますます汪直に諂って歓心を得、日夜馬文升を讒言して陥れようとしたが、糸口がなかった。馬文升が帰ると、牢醴(供物の肉と酒)を賜った。
  • 翌年春、遼東でたびたび失態があったため、汪直に定西侯の蔣琬・尚書の林聰らを伴わせて査察させた。ちょうど余子俊が陳鉞を弾劾したので、陳鉞はそれが馬文升の意から出たものと疑い、いよいよ急に陥れようとした。汪直はそこで、馬文升の行政が方を失い、辺民が農具を売買するのを禁じて怨みと叛乱を招いた、と奏した。馬文升は詔獄に下され、重慶衞に流された。
  • 汪直は馬文升を失脚させると、陳鉞とともに大いに兵を出して功を求めた。陳鉞はこれによって急速に昇進し、尚書に至った。
  • 成化十九年(1483年)、汪直が失脚し、馬文升は復官した。翌年、左副都御史として起用され遼東を巡撫した。馬文升は前後三度遼東に至り、軍民は彼が来ると聞いてみな喜び踊った。中官を抑えて総兵に搾取させなかったので、人々はいよいよ大いに喜んだ。
  • 成化二十一年(1485年)、右都御史に進んで漕運を総督した。淮・徐・和で飢饉が起こると、江南の糧十万石と塩の代金の銀五万両を移して救った。この年の冬、召されて兵部尚書となった。翌年、李孜省の讒言によって南京に移された。

孝宗朝の兵部尚書

  • 孝宗が即位すると召されて左都御史を拝した。𢎞治元年(1488年)に上言した。憲宗の朝に岳・鎮・海・瀆の諸廟で方士の言を用い、石函を置いて周囲に符篆をめぐらし、金字で書いた道経・金銀の銭・宝石および五穀を納めて呪詛の具としている。毀つべきである、と。従われた。また十五事を上言し、ことごとく議して施行された。
  • 帝が耤田を耕したとき、教坊が雑戲を進めた。馬文升は色を正して「新しい天子には稼穡の艱難を知らせるべきである。これは何事か」と言い、ただちに退けた。御史の徐瑁・賀霖が旨を承ることを誤って獄に下されたときは、政治の初めに軽々しく言官を罰すべきでないと言い、釈放された。
  • まもなく十二團營の提督を命じられた。翌年、余子俊に代わって兵部尚書となり、團營の統轄はもとのままであった。太平が久しく続いて軍政は緩み、西北の部族はしばしば塞下をうかがっていた。馬文升は諸将校を厳しく査定し、貪欲・怯懦の者三十余人を罷免した。奸人は大いに怨み、夜に弓矢を持ってその門をうかがい、あるいは誹謗の書を作って東長安門内に射込んだ。帝はこれを聞いて錦衣衞に捜索を命じ、騎士十二人をつけて馬文升の出入りを護衞させた。馬文升は辞職を願ったが、優詔をもって許されなかった。
  • 小王子が数万騎で大同の塞下に放牧し、形勢が険悪となった。馬文升は病で休暇中であったが、帝は中官に医者を伴わせて診させ、あわせて策を問わせた。馬文升は、彼は他の部族に敗れたばかりで何もできない、ひそかに備えを固めつつ声を大にして迫れば必ず立ち去る、と答えた。はたしてそのとおりになった。
  • 継母の喪に遭い、詔によって起復を命じられ、二度上疏して辞退したが許されなかった。
  • 西北の別部である伊綿喀蘭の長は、額埒蘇王・孟克王・額哩音王といい、それぞれ使者を遣わして肅州の塞に来て入貢と互市を乞うた。巡撫の許進、総兵官の劉寧がこれを取り次いだが、馬文升は互市は許してよいが入貢は許してはならぬと言い、退けた。
  • 土魯番はすでに善巴を襲って捕らえ、伊蘭に哈宻を守らせ、僭って汗を称し、沙州を侵して罕東の諸部を脅して自分に付かせていた。馬文升は、この寇は驕慢で、大きな打撃を与えなければ最後まで畏れを知らない、漢の陳湯の先例にならって急襲して斬るべきだと議した。指揮の楊翥が番族の事情に通じていることを知り、召して方略を尋ねた。楊翥は罕東から哈宻に至る道路を詳しく述べ、罕東の兵三千を前鋒とし、漢兵三千を続かせ、数日分の糧を携えて間道を強行軍すれば志を得られる、と請うた。馬文升は喜んで帝に請い、罕東・赤斤・哈宻の兵を発するよう敇を下し、副總兵の彭清に率いさせて巡撫の許進の指揮下で討たせ、はたして克った。この事は許進の伝に詳しい。
  • 團營の兵が足りないので、錦衣衞および騰驤四衞から選んで補充するよう請い、許可を得た。ところが中官の甯瑾がこれを阻んだ。馬文升および兵科の蔚春らが、詔旨は信を守るべきだと言ったが、容れられなかった。
  • 陝西で大地震があった。馬文升は言った。これは外寇が侵犯する兆しである。今、和碩が跳梁しているのに、国内は民が困窮し財が尽き、将は怯懦で兵は弱い。仁政を行って民を養い、武備を講じて国境を固め、財用を節し、齋醮を停め、伝奉による冗員を止め、閑地を願い出るのを禁じ、日に二度朝に臨んで庶政に勤め、あわせて陝西の織造の内臣を撤収し、被災者の家を救うべきである、と。帝はその言を容れ、内臣はただちに召還された。
  • 馬文升は兵部にあること十三年、軍務に心を尽くし、屯田・馬政・辺備・守禦について便宜をたびたび条上した。国家の事で言うべきものは、たとえ自分の職掌でなくとも言い尽くさぬことがなかった。
  • かつて、太子が四歳になったから早く教え諭すべきだとして、衛聖の楊夫人のような篤実で老成し書史に通じた者を選んで抱き扶けさせ、言葉づかいも起居もすべて正しく導かせるよう請うた。また、内廷の私宴、鐘鼓司の演芸、元宵の鼇山、端午の競渡といった諸々の見世物は一切見せてはならず、仏教・道教の教えはとりわけ遠ざけるべきだとした。
  • 山東が長く旱に苦しみ、浙江および南畿が水害に遭ったときは、担当官に救恤を命じ、士卒を練って不測に備えるよう請うた。帝はいずれも深く容れた。
  • 民が賦役に困窮していることについて、馬文升はその害を極言した。今、民田は十のうち四、五を税に取られる。辺塞へ輸送する糧は一石につき銀一両以上の費用がかかるが、豊年には糧八、九石でようやく銀一両に換わる。絹綿や布帛を京師へ輸送する場合、納入の費用が輸送する物の値を上回る。南方から通州への漕運では、三、四石を費やして一石を届けることさえある。中州では毎年五、六万人を治水に役し、山東・河南の決壊した堤の修築には二十万人を下らぬ人夫を要し、蘇州・松江の治水も同様である。湖廣に吉・興・岐・雍の四王府、江西に益・夀の二府、山東に衡府を建てるため、通計して人夫は百万を下らない。諸王が封国に赴く際の人夫と供応もまた四十万にのぼる。これに湖廣の征蠻、山陝の防辺の兵糧輸送を加えれば、いかほどか知れない。賦が重く役が繁いこと、この時ほどはなはだしいことはない。内外の諸司に厳しく命じて煩費を省き、力役をゆるめ、勝手な割り当てをさせず、王府の工事は速やかに終えさせれば、疲弊も少しは癒えよう。さらに正学を崇び邪術を抑えて聖心を清め、財用を節し工作を省いて国の根本を培っていただきたい、と。詔によって担当官に詳議させた。
  • そのほか論奏したところははなはだ多く、朝臣の列中で最も年長の碩学とされ、帝も心を推して任せた。太子太保から重ねて加えられて少保兼太子太傅に至り、折々の賜与は諸大臣の及ぶところではなかった。
  • 吏部尚書の屠滽が罷免されると、廷議は馬文升を推したが、御史の魏英らは兵部は馬文升でなければならぬと述べた。帝もそのとおりだと考え、倪岳を屠滽の後任とし、馬文升には少傅を加えて慰めた。倪岳が没すると、馬文升が代わった。
  • 南京・鳳陽で大風雨があり、家屋が壊れ木が抜けた。馬文升は、膳を減らし楽を撤し徳を修めて過ちを省き、経筵に臨み、遊宴を絶ち、急がぬ務めを停め、額外の織造を止め、飢民を救い、盗賊を捕らえるよう請うた。さらに吏部の職掌について十事を上申し、帝はことごとく褒めて容れた。
  • 一品の官に在ること九年が満ち、少師兼太子太師を加えられた。帝は官吏の考察を行うにあたり、特に馬文升および都御史の戴珊・史琳を煖閣に召し、公正に黜陟せよと諭した。また馬文升が高齢で耳が遠いので、二度呼びかけて告げ、左右の者に脇を支えさせて階を下らせた。
  • はじめ馬文升が都御史であったころ、王恕は吏部にあり、二人とも正直をもって天下の事に当たったので、その疏が出れば天下に伝誦された。王恕が去ると人望はみな馬文升に帰した。吏部に至ったときはすでに八十近く、長い髯と長い眉で、事に臨んで堂々と論じ、少しも衰えなかった。

正徳初年と最期

  • 孝宗が崩ずると、馬文升は遺詔を承けて伝奉官七百六十三人の淘汰を請い、太僕卿の李綸ら十七人を留め、残りはすべて汰めるよう命じられた。
  • 正徳元年(1506年)、御用監の中官王瑞が新たに汰められた者のうち七人を再び用いるよう請うたが、馬文升は詔を奉じなかった。給事中の安奎が王瑞の収賄の事実を探り出して弾劾した。王瑞は怒って、馬文升が旨に抗したと誣告した。あらためて廷議に下すと、みな馬文升を是としたが、帝はついに聴かなかった。馬文升は帰郷を乞うたが許されなかった。
  • このころ朝政はすでに中官に移っており、馬文升は老いて日ごとに去る意を抱いた。ちょうど兩廣の総督が欠員となり、馬文升は兵部侍郎の熊繡を推した。熊繡は不満で赴任を望まず、その同郷の御史何天衢がそこで馬文升を私情に偏り君を欺いたと弾劾した。馬文升は続けて疏をあげて辞職を求め、許された。璽書を賜り、伝馬に乗ることを許され、月々の廩米・年ごとの隷卒も加増された。
  • 郷里にあっては用事がなければ州城に入らず、時事に及ぶと眉をひそめて答えなかった。三年たって劉瑾が政を乱すと、馬文升が以前に雍泰を用いたことを朋党とみなして、その名を除いた。正徳五年(1510年)六月に没した。享年八十五。劉瑾が誅されると復官し、特進光祿大夫・太傅を贈られ、端肅と諡された。
  • 馬文升は文武の才があり、臨機応変に長け、朝廷の大議はしばしば彼の裁断を待った。功は辺鎮にあり、外国もみなその名を聞いていた。とりわけ気節を重んじ、廉直を励んで正道を行い、讒言や誹謗に遭ってたびたび起用され、たびたび倒れても、ついに少しも節を曲げなかった。
  • 子の璁は郷貢士として吏部の選を待っていたが、馬文升は地方官を願い出させ、「大臣の子で京官にとどまるなら、誰が地方に出るのか」と言った。
  • 没して一年余りののち、大盜の趙燧らが河南を略奪して鈞州に至ったが、馬文升の家があるというので手を出さずに去り、泌陽を攻めて焦芳の家を焼き、草を束ねて焦芳の像を作って引き裂いた。
  • 嘉靖の初め、馬文升に左柱國・太師を加贈した。