明史卷一百八十二 列傳第七十 劉大夏
劉大夏(字は時雍、?–1516年)は華容の人。天順八年の進士。兵部郎中のとき安南征討の旧文書を隠して汪直の開戦を阻んだ。𢎞治六年に張秋の黄河決壊を治めて安平鎮と改名させ、宣府の兵糧買い上げを開いて有力者の利権を破った。𢎞治十五年に兵部尚書となり、弊政十六事の条上や便殿での応答を通じて孝宗の厚い信任を得、鎮守中官の害を諫めた。武宗の代に劉瑾の憎むところとなり、七十三歳で肅州に流され、赦免後に八十一歳で没した。
年表(11件)
- 天順八年1464年進士に登り、庶吉士に改められる
- 成化十九年1483年福建右參政に遷り、治績で知られる
- 𢎞治二年1489年喪が明けて廣東右布政使に遷り、田州・泗城を諭して従わせる
- 𢎞治六年1493年右副都御史に抜擢されて張秋の黄河決壊を治め、安平鎮と改名される
- 𢎞治十年1497年宣府の兵糧を管理し、少量の納入も許して有力者の利権を破る
- 𢎞治十五年1502年たびたび辞退したのち兵部尚書を拝する
- 𢎞治十七年1504年廷臣と会して十六事を条上し、織造・齋醮の停止などを勝ち取る
- 正徳元年1506年貪虐な鎮守中官の取り調べを請うて容れられず、五月に太子太保を加えられ致仕する
- 正徳三年1508年九月に岑猛の一件で逮捕されて詔獄に下り、肅州への流罪となる
- 正徳五年1510年夏に赦されて帰り、劉瑾の誅殺後に復官して致仕する
- 正徳十一年1516年五月に没する。享年八十一。太保を贈られ忠宣と諡される
出自と兵部での見識
- 劉大夏は字を時雍といい、華容の人である。父の仁宅は郷挙から瑞昌県の知県となった。流民千余家が山中に隠れていたのを、巡邏の者が賄賂を得られず民が反いたと誣告し、衆議は出兵を主張した。仁宅は単騎で招いたので、民は争って出て訴え、出兵は取りやめとなった。仁宅は広西副使に抜擢された。
- 劉大夏は二十歳で郷試に首席となり、天順八年(1464年)の進士に登り、庶吉士に改められた。成化の初め、館試の結果、留任すべきところを自ら実務を試したいと願い出たので、職方主事に任じられ、再び遷って郎中となった。兵事に明るく、曹中の積年の弊をことごとく改め、上奏や覆奏は多く帝意に適ったので、尚書は左右の手のように頼りにした。
- 汪直は辺功を好み、安南の黎灝が老撾に敗れたのに乗じてこれを取ろうとし、帝に申し出て永樂年間の安南征討の旧文書を求めた。劉大夏はこれを隠して渡さず、ひそかに尚書の余子俊に告げて、「兵端がひとたび開かれれば西南はたちまち焦土となる」と言った。余子俊は悟り、事は沙汰やみとなった。
- 朝鮮の朝貢路はもと鴉鶻關を経ていたが、このとき鴨緑江経由に改めたいと請うた。尚書は許そうとしたが、劉大夏は言った。鴨緑の道が近いことを祖宗の朝が知らぬはずはない。それでも数か所の大鎮を迂回させたのは、おそらく深い意図がある。許してはならない、と。そこで取りやめとなった。
- 中官の阿九という者がいた。その兄は京衞經厯であったが、罪を犯して劉大夏に笞を打たれた。憲宗はその讒言を容れて劉大夏を詔獄に捕らえ、東廠に探らせたが何も出なかった。ちょうど懐恩が力を尽くして救ったので、杖二十で釈放された。
- 成化十九年(1483年)、福建右參政に遷り、治績で知られた。父の訃報を聞くと一晩で出立した。
張秋の治水と地方の治績
- 𢎞治二年(1489年)、喪が明けて廣東右布政使に遷った。田州・泗城が不穏であったが、劉大夏が赴いて諭すと従った。のちに山賊が起こり、檄を承けて討ったが、賊を捕らえたら必ず生かして連れてきて事実を確かめよと命じたので、そのおかげで生き延びた者が半ばを超えた。左布政使に改められ、浙江に移った。
- 𢎞治六年(1493年)春、黄河が張秋で決壊し、才ある臣を広く選んで治めさせよとの詔があった。吏部尚書の王恕らが劉大夏を推薦し、右副都御史に抜擢して赴かせた。そこで黄陵岡から賈魯河を浚え、さらに孫家渡・四府營の上流を浚えて水勢を分け、長堤を築いて胙城から東明・長垣を経て徐州に至る三百六十里を貫いた。水はよく治まり、張秋鎮を安平鎮と改名した。孝宗はこれを嘉し、璽書を賜って褒め称えた。この事は河渠志に詳しい。
- 召されて左副都御史となり、戶部左侍郎を歴任した。
- 𢎞治十年(1497年)、左僉都御史を兼ねて宣府の兵糧を管理するよう命じられた。尚書の周經が「塞上では有力者の子弟が糴買を私利としている。剛直によって禍を買うな」と言うと、劉大夏は「天下の事は道理で処理するもので、勢力で処理するものではない。現地に着いてから図る」と答えた。もともと塞上の買い上げは、粟千石・秣一万束でなければ納入を申し出られなかったので、中官や武臣の家が利権を握っていた。劉大夏は秣百束・粟十石以上を持つ者すべてに納入を許した。有力者は利を得ようにも手だてがなく、二か月足らずで蓄えは満ち余り、辺境の人々はその恩恵を受けた。
- 翌年の秋、三度上疏して病を理由に帰り、東山の下に草堂を築いてそこで読書した。二年を経て廷臣が交々推薦し、右都御史として起用され兩廣の軍務を総制した。敕使が門に至ると、僮僕二人を連れて赴いた。広東の人はもとより劉大夏を慕っていたので、喜び踊って祝った。劉大夏は吏を清め、供応を減らし、内外の鎮守官が軍士を私用に役することを禁じたので、盗賊もそのために衰えた。
兵部尚書としての諫言
- 𢎞治十五年(1502年)、兵部尚書を拝した。たびたび辞退したのちに命を受けた。召見されると帝は「朕はしばしばそなたを用いようとしたが、そなたはしばしば病を理由に辞退する。なぜか」と言った。劉大夏は頓首して答えた。臣は老いてかつ病んでいる。ひそかに見るに天下は民が窮し財が尽きている。もし不測の事があれば責めは兵部にある。自ら力の及ばぬことを量って辞退したのだ、と。帝は黙した。
- 南京・鳳陽で大風が木を抜き、河南・湖廣が大水となり、京師は長雨と曇天に苦しんだ。劉大夏は、祖宗以来の旧制でなく軍民を害するものはことごとく条上せよと請うた。𢎞治十七年(1504年)二月にも重ねてこれを述べた。帝は興すべき事・革めるべき事を担当官に事実を具して奏上させた。そこで廷臣と会して十六事を条上したが、いずれも権幸に不都合なものであったので、彼らは力を合わせて阻んだ。帝は決しかね、再議に下した。
- 劉大夏らは言った。外廷に属する事はすべてお許しをいただいたのに、少しでも権貴に関わるとまた調査させられる。臣らは愚かで、どうしてよいか分からない、と。久しくして旨を得た。伝奉官は名を疏して請わせること、幼匠・厨役は月米を三斗減らすこと、増設された中官は司禮監が調べて奏すること、四衞の勇士は御馬監が数を具して奏すること、その他はすべて議のとおりとすること、織造と齋醮はみな停止すること。光祿寺の浮費は巨万を省き、勇士の名義だけの空員の弊も大いに減った。制が下ると朝廷こぞって喜んだ。
- これより先、外戚や近臣の寵幸を得た者が多く恩沢を求めており、帝はその政治への害を深く知って、奮い立ってこれを正そうとしていた。時に災異が多かったので、あらためて群臣に諭して各々欠失を陳べさせた。劉大夏はまた数事を上申した。その年の六月には重ねて兵政の十害を陳べ、あわせて帰郷を乞うた。帝は許さず、革めるべき弊端をさらに詳しく具して奏せと命じた。そこで劉大夏は、南北の軍が漕運や交代の勤番に苦しむこと、および辺軍が疲弊して辺将に搾取されている実情を挙げて極言した。
- 帝はそこで便殿に劉大夏を召して問うた。「そなたは先に天下は民が窮し財が尽きたと言った。祖宗以来、徴収には定めがあるのに、なぜ今日こうなったのか」。答えて「まさに定めどおりでないからです。広西では毎年鐸木を取り、広東では香薬を取り、費用はもとより万を数えます。他は推して知るべしです」。また軍について問うと「民と同じく窮しています」。帝が「在営には月糧、出征には行糧があるのに、なぜ窮するのか」と言うと、「その将帥が半ば以上を搾取しますから、窮しないはずがありません」と答えた。帝は嘆息して「朕は位に臨んで久しいのに、天下の軍民の困窮を知らなかった。どうして人主といえようか」と言い、詔を下して厳禁した。
- このころ帝はひたむきに太平を志し、劉健が首輔、馬文升が師臣として六卿の長にあり、一時、正しい人々が官位に満ちていた。帝は劉大夏が謹厳で実務に練達していることを知って、とりわけ親信し、しばしば召見して事を決した。劉大夏もまた事に応じて忠を尽くした。
- 大同で小さな警報があり、帝は中官の苗逵の言を用いて出兵しようとした。内閣の劉健らは力を尽くして諫めた。帝はなお疑い、劉大夏を召して「そなたは広東にいて、苗逵の延綏で敵の巣を衝いた功を知っているか」と問うた。答えて「聞くところでは捕虜にしたのは婦女子十数人にすぎません。朝廷の威徳のおかげで全軍が帰れたので、そうでなければどうなったか分かりません」。帝はしばらく黙してのち「太宗はしきりに塞外に出た。今なぜできぬのか」と問うた。答えて「陛下の御武勇はもとより太宗に劣りませんが、将領と兵馬は遠く及びません。しかも淇國公はわずかに節度に背いただけで数十万の兵を砂漠に失いました。どうして軽々しく言えましょう。今の上策は守りだけです」。都御史の戴珊も傍らから賛成して決を促した。帝はすぐさま「そなたたちがいなければ、朕はあやうく誤るところであった」と言い、これによって出兵は取りやめとなった。
- 莊浪の土着の帥である魯麟は甘肅の副将であったが、大将の位を求めて得られず、その部衆の強さを恃んでそのまま莊浪に帰った。廷臣は変が起こることを恐れ、大帥の印を授けようとし、あるいは京師に召し返して閑職に置こうとした。劉大夏は、その先祖の忠順を奨励したうえで魯麟は閑居させるがよいと請うた。魯麟はもとより貪欲・暴虐で人心を失っており、兵権が去ればもはや何もできず、ついに悶々として病死した。
- 帝は近い土地に兵を宿らせて左右の護りとしようとした。劉大夏は、保定に都司を置いて五衞を統べさせたのは祖宗の意もそこにあったのだろうと言い、操練の軍一万を戻して西衞とし、京の東の兵である宻雲・薊州を入れて東衞とするよう請うた。帝は許可と答えた。京營を監督する中官は兵を失うのを憤って宮門に流言を掲げた。帝はそれを劉大夏に示して「宮門などに外の者が至れるものか。必ずこの連中が兵を失うのを不利と思ってのことだ」と言った。これによって離間は行われなかった。
- 帝はかつて劉大夏に「事あるごとにそなたを召そうと思うが、職を越えることを慮って止めている。今後は行うべき事・止めるべき事があれば掲帖(覚書)にして進めよ」と諭した。劉大夏は頓首して「事の可否は、外は府・部に付し、内は閣臣に諮ればよいのです。掲帖は弊を生じ、後世の法とすべきではありません」と言った。帝は善しとした。
- また、天下はいつ太平になるかと問われ、「治を求めるのもまた難しく、あまり急いではなりません。ただ人を用い政を行うにあたって、すべて大臣と対面して議し、当を得てから行えば、久しくして天下はおのずから治まります」と答えた。
- 折を見て四方の鎮守中官の害を述べた。帝が実情を問うと、「臣が兩廣にいたとき、諸々の文武の大官の供応を合わせても一人の鎮守にかなわないのを見ました。その煩費は推して知るべしです」と答えた。帝は「そのとおりだ。だが祖宗以来これを置いて久しく、にわかに改められようか。ただ今後は必ず鄧原・麥秀のような廉直な者を得てから用い、そうでなければやめよう」と言った。劉大夏は頓首して善しと称えた。
- 劉大夏は召されるたびに御榻の前に跪き、帝が左右を見やると近侍はすぐ退いた。あるとき対座が長引いて疲れ、立てなくなったので、帝は司禮太監の李榮を呼んで脇を支えて退出させた。ある日の早朝、劉大夏は列にいたのに帝がたまたま見つけなかった。翌日「そなたは昨日朝を欠いたのか。御史に糾弾されるのを恐れて召さなかった」と諭された。その厚遇はこのようであった。特に玉帯と麒麟服を賜り、下賜の金品や上等の酒は年中絶えなかった。
正徳の弾圧と流謫
- まもなく孝宗が崩じ、武宗が即位した。劉大夏は詔を承けて、四方の鎮守中官のうち定員外の者の撤収を請うたが、帝は均州の齊元だけを撤収した。劉大夏は重ねて撤収すべき者二十四人を議して上申し、また皇城・京城の守衞の中官を減らすよう奏したが、いずれも容れられなかった。
- ついで伝奉によって任官した武臣で汰めるべき者六百八十三人を列挙して上申し、許可された。大漢將軍の薛福敬ら四十八人も官を奪うべきであったが、薛福敬らはわざと侍衞に出仕せずに帝の怒りを煽った。帝はにわかに復官を命じ、兵部に釈明を求めて罪しようとした。中官の甯瑾が頓首して「これは先帝の遺命であり、陛下は登極の詔書に列しておられます。罪すべきではありません」と言ったので、帝の意はようやく解けた。
- 中官の韋興は成化の末に罪を得て長く廃されていたが、このとき縁故を頼って均州の鎮守となった。言官が交々諫め、劉大夏らも再三争ったが、いずれも聴かれなかった。
- 正徳元年(1506年)春、さらに鎮守中官のうち江西の董讓、薊州の劉瑯、陝西の劉雲、山東の朱雲は貪欲・残虐がとりわけひどいとして、取り調べを乞うた。帝は喜ばなかった。劉大夏は自分の言が用いられないと知り、たびたび上章して骸骨を乞うた。その年の五月、詔して太子太保を加え、敕を賜り駅伝で帰らせ、廩米・隷卒を制のとおり給した。給事中の王翊・張襘が留任を請い、吏部も王翊・張襘の言のとおりにと請うたが、答えはなかった。
- 劉大夏は忠誠で篤実、孝宗に知遇を得て身を忘れて国に尽くし、権幸に対しては多く抑制を加えた。かつて勇士を厳しく査定するよう請うたことで劉瑾に憎まれ、劉宇もまた劉大夏を恨んで、焦芳とともに劉瑾に「劉大夏の家財を没収すれば辺境の費用の十のうち二、三に相当する」と讒言した。
- 正徳三年(1508年)九月、田州の岑猛の一件にかこつけて逮捕され詔獄に繋がれた。劉瑾は変乱を煽った律に当てて死罪にしようとしたが、都御史の屠滽が不可とした。劉瑾は罵って「死罪でなければ流罪もなしというのか」と言った。李東陽が言葉を和らげてとりなし、しかも劉瑾が探ったところ劉大夏の家は実際に貧しかったので、極辺への流罪となった。はじめ広西が擬されたが、焦芳が「それでは帰らせるようなものだ」と言い、肅州に改められた。
- 劉大夏はすでに七十三歳であった。布衣で徒歩、大明門の下を過ぎるとき叩頭して去った。見る者は嘆息して涙を流し、父老は籠を提げて食を送り、行く先々では市を閉じ、香を焚いて劉尚書の生還を祈った。流謫の地に着くと、諸官は劉瑾を憚って音信も贈り物も絶ったが、儒学の門人十人が代わる代わる食を供した。集団の訓練があれば戈を担いで隊列に加わり、担当官が固く辞退しても、劉大夏は「軍はもとより役に就くものだ」と言った。連れて行ったのは僕一人だけで、なぜ子孫を伴わないのかと問われると、「私は官にあったとき子孫のために恩沢を乞わなかった。今、老いて罪を得たのに、どうして流謫の地でともに死なせられようか」と答えた。
- 劉大夏が流されてからも劉瑾はなお他の事を拾い上げて、米を罰として塞上に納めさせること二度に及んだ。正徳五年(1510年)夏に赦されて帰り、劉瑾が誅されると復官して致仕した。清軍御史の王相が廩米・隷卒の復旧とその子孫の登用を請うたが、権勢を握る中官が最後まで恨んで許さなかった。
- 劉大夏は帰ってから子孫に力を尽くして田を耕し食を得ることを教え、少し余裕ができると旧友や一族に分け与えた。あらかじめ自分で墓誌を作り、「人に美辞を飾らせて地下で恥じ入るようなことをさせるな」と記した。
- 正徳十一年(1516年)五月に没した。享年八十一。太保を贈られ、忠宣と諡された。
- 劉大夏はかつて「官にあっては己を正すことを第一とする。利を戒めるだけでなく、名もまた遠ざけるべきだ」と言い、また「人の生涯は棺を蓋って評価が定まる。一日死なぬうちは、一日の憂いと責めが終わらない」と言った。
- 逮捕されたときは畑で菜を鋤いていたところで、室に入って数百銭を携え、小驢に跨って道に就いた。赦されて帰ったのち、門下から巡撫となった者が百里の道を曲げて訪ねたが、途中で犂を扶けている者に「尚書の家はどこか」と尋ねると、その者が案内して堂に登らせた。それが劉大夏であった。
- 朝鮮の使者が鴻臚寺の館で劉大夏と同郷の張生に会うと、安否を尋ねて「わが国では劉東山の名を聞いて久しい」と言った。安南の使者は入貢したとき「劉尚書が辺境に流されたと聞くが、今はご無事か」と言った。外国に重んじられることはこのようであった。
史論
- 贊に言う。王恕は風節を砥礪し、馬文升は政体に練達し、劉大夏は篤実に身を持した。いずれも国を経める遠謀を備え、君を導く正しい志を蓄え、庶務を周到に整え、たびたび直言を進めた。その居心と行いをたどれば、磊落・光明にして剛直・清亮であり、古の大臣の節操があった。累朝に仕えて長寿を保ち、朝野の期待を担い、名は遠方にまで重んじられた。詩が老成を頌え、書が「黄髪」を称するのは、この三臣に近い。
- ただ王恕は「名を遠ざける」戒めに暗く、自分の伝を作らせたために疎んじられた。馬文升と劉大夏は孝宗の朝に知遇を得、明君と良臣が互いに契り合って一心となった。しかし宦官が権を握るに及んで、耆宿は退けられた。進退の際に関わるところは、なんと重いことであろうか。