明史卷一百八十二 列傳第七十 王恕
王恕(字は宗貫、?–1508年)は三原の人。正統十三年の進士から地方官・巡撫を歴任し、荊襄の流民鎮撫、雲南での中官錢能の弾劾、南畿での中官王敬の摘発など、権幸を憚らぬ直言で「兩京十二部、獨り一王恕有り」と謳われた。そのため成化末には宮保を奪われて致仕したが、孝宗が立つと吏部尚書に召され、耿裕・彭韶・何喬新・劉大夏ら名臣を抜擢して𢎞治の盛時を支えた。のち邱濬・劉文泰との軋轢から自伝の版木を焼かれて致仕し、正徳三年に九十三歳で没した。
年表(10件)
- 正統十三年1448年進士に及第し、庶吉士から大理左評事に任じられる
- 天順四年1460年治績第一と評されて江西右布政使に抜擢され、贛州の賊を平定する
- 成化元年1465年右副都御史に抜擢され、南陽・荊襄の流民の乱を鎮撫する
- 成化十二年1476年左副都御史として雲南を巡撫し、鎮守中官の錢能の私通を弾劾する
- 成化二十年1484年南京兵部尚書に改められる
- 成化二十二年1486年伝奉官の再開を切諫し、宮保を落とされて致仕させられる
- 𢎞治元年1488年劉吉が中旨を取って言官の弾劾を吏部に下さず、職掌が果たせぬとして辞職を請う
- 正徳三年1508年四月に没する。享年九十三。太師を贈られ端毅と諡される
- 𢎞治六年1493年末子の承裕が進士となる
- 嘉靖六年1527年承裕が南京戶部尚書となり、滞納の税を清算して帝の褒詞を得る
篇首の立伝者一覧
- 王恕(子の承裕を附伝する)
- 馬文升
- 劉大夏
出自と初期の官歴
- 王恕は字を宗貫といい、三原の人である。正統十三年(1448年)の進士で、庶吉士から大理左評事に任じられ、左寺副に進んだ。刑罰の当を得ていない六箇条を挙げて上申し、いずれも採用された。
- 揚州知府に転じると、上への報告を待たずに官倉の粟を出して飢民を救い、資政書院を建てて士人の教育にあたった。
- 天順四年(1460年)、治績が第一と評価されて江西右布政使に抜擢され、贛州の賊を平定した。
- 憲宗が即位すると、地方長官を厳しく査定せよとの詔が出た。河南左布政使の侯臣ら十三人が罷免され、王恕が侯臣の後任となった。
流民の鎮撫と河道の総督
- 成化元年(1465年)、南陽・荊襄の流民が集結して乱を起こしたため、右副都御史に抜擢されて鎮撫にあたった。ちょうど母の喪に遭い、奔喪を許されたが、二か月で職務に復すよう命じられた。辞退したが許されなかった。
- 尚書の白圭とともに大盜の劉通を平らげ、その一味の石龍をも破った。部下を厳しく統率して流民をむやみに殺させず、流民は生業に復した。
- 河南の巡撫に移り、功によって左副都御史に進み、南京刑部左侍郎に遷った。
- 父の喪が明けると、もとの官のまま河道総督となり、髙郵・邵伯の諸湖を浚渫し、雷公塘・上句城塘・下句城塘・陳公塘の四塘の水閘を修めた。
- 災異にちなんで災いを消す方策を求めるよう請い、帝は山東の租税を一年免じ、畿内でも多く減免した。まもなく南京戶部左侍郎に改められた。
雲南巡撫と中官錢能の弾劾
- 成化十二年(1476年)、大學士の商輅らが、雲南は万里の遠隔にあって西は諸夷を制し南は交阯に接するのに、鎮守中官の錢能の貪欲・専横がはなはだしいとして、威望ある大臣を巡撫として派遣し鎮圧させようと議した。そこで王恕は左副都御史に改められて赴任し、任地で右都御史に進んだ。
- はじめ錢能は指揮の郭景を京師に遣わして上奏させ、安南の捕盜兵が雲南の境内に侵入したと言った。帝はただちに郭景に敇を持たせて戒告させた。旧制では安南への使者は必ず広西を経由するのに、郭景は雲南から直行した。
- 錢能は郭景に託して安南王の黎灝へ玉帯・寶縧・蟒衣その他の珍奇な品々を贈った。黎灝は将に兵を率いて郭景を送り返させ、そのまま雲南への道を通じようとした。郭景は後難を恐れ、先行すると偽って関門の守将に告げ、そのまま逃げ帰り、安南の寇が来たと言いふらしたので、関門の吏は戒厳した。黔國公の沐琮が人を遣って安南の将に告げ、ようやく引き返させた。ところが諸臣は錢能を恐れて隠して奏上しなかった。
- 錢能はさらに郭景や指揮の盧安・蘇本らをしきりに遣わして干崖・孟宻の諸土官と通じ、その金銀財宝を数えきれぬほど受け取っていた。王恕はこれをすべて探り出し、騎兵を遣って郭景を捕らえた。郭景は恐れて自殺した。そこで錢能を弾劾し、外国と私通した罪は死に当たるとした。詔により刑部郎中の潘蕃が調査に赴いた。
- 錢能はその間にも駅伝で黄色い鸚鵡を献上したので、王恕は禁絶を請い、あわせて錢能の貪暴の実態をことごとく暴いて言った。「かつて交阯は鎮守の人選を誤って一方を失った。今日のことはそれよりさらにひどい。陛下はなぜ錢能一人を惜しんで辺境を安んじないのか」と。
- 錢能は大いに恐れ、急ぎ貴顕・近臣に頼んで王恕を召還するよう請わせた。ちょうどこのころ商輅・項忠ら正論の士が汪直に逆らって罷免されていたので、王恕は南京都察院を掌り守備の機務に参贊する職に改められ、錢能の一件はたちまち沙汰やみとなった。潘蕃の取り調べは事実を明らかにして上奏したが、不問に付された。
- 王恕は雲南に九か月いたが、その威令は辺境の外にまで及び、黔國公以下みな恐れつつしんで命を奉じた。上奏は合わせて二十通に及び、剛直の名声は天下を動かした。
- このころ安南は江西の叛人で王姓の者を受け入れて謀主とし、ひそかに間諜を臨安に入れ、また䝉自で銅を買って兵器を鋳造し、隙をうかがって雲南を襲おうとしていた。王恕は副使二員の増設を請うて辺備を整えたので、その謀ははばまれた。
南畿巡撫と中官との対決
- 南京に戻って数か月で兵部尚書に遷り、参贊の任はもとのままであった。官属の考選にあたって請託を厳しく拒んだので、同僚はみな喜ばなかった。錢能は帰任してからもしばしば帝に王恕を讒言した。帝もまた王恕がたびたび直言することを恨んでいたので、右副都御史を兼ねさせて南畿の巡撫とした。
- 旧制では應天・鎮江・太平・寧國・廣徳の官田は租の半分を徴し、民田は全免であった。その後、民田は多く豪族の手に帰し、官田の負担が貧民にのしかかった。そこで王恕は官田の耗米を減らし、そのぶんを民田にわずかに加えた。常州には余剰米があったので、六万石を夏税に充て、さらに他府の戶口鹽鈔六百万貫を補い、公私ともに便となった。
- 管内が水害に遭うと、秋糧六十余万石の免除を奏請し、みずから巡って賑貸し、二百余万人を救った。
- 江南は毎年白糧を輸送し、民は破産する者が多いのに、光祿寺はそれを一律に賄い方や下級の職人の食に充てていた。また中官の横暴で、各地から上供の物を運ばせては監収の者が余分を要求し、織物を織らせたり花卉・禽鳥を採らせたりする使者が道に絶えなかった。王恕は前後にわたって論じたが、いずれも聞き入れられなかった。
- 中官の王敬が妖人の千戶王臣を伴って南方に下り、薬物や珍玩を採取した。行く先々が騒然となり、長吏の多くが辱めを受けた。蘇州に至ると諸生を集めて妖書を写させたので、諸生は大いに騒いだ。王敬は諸生が命に抗したと奏上した。
- 王恕はただちに上疏して言った。この凶作の年には使者を遣って賑済すべきなのに、かえって玩好の品を強要している。むかし唐の太宗が梁州に名鷹を献じさせようとし、明皇が益州に半臂褙子を織らせ琵琶の桿撥・鏤牙の合子などを進上させようとしたとき、李大亮・蘇頲は詔を奉じなかった。自分は及ばぬながらもこの人々を慕う、と。そのうえで王敬らの罪状をことごとく列挙した。
- 王敬もまた王恕を誣告し、常州知府の孫仁にも及んだので、孫仁は逮捕された。孫仁は新淦の人で、進士から知府を歴任した。人となりが方正峻厳で、王敬が来ても礼遇しなかったため憎まれたのである。王恕は上章して救い、三度にわたって王敬を弾劾した。ちょうど中官の尚銘も王敬の悪事を暴いたので、王敬らは獄に下され、その一味十九人は辺境に流され、王臣は市に棄てられて首を南京に伝えられた。孫仁も釈放されて帰り、後に官を重ねて巡撫寧夏右副都御史に至った。
剛直の名声と成化年間の失脚
- 成化二十年(1484年)、南京兵部尚書に改められた。当時、錢能もまた南京の守備にあり、人に「王公は天人である。私はただ敬って仕えるだけだ」と言った。王恕がわだかまりなく接したので、錢能もついに身を慎むようになった。
- 林俊が獄に下されたとき、王恕は言った。天地の祭壇は一つ、祖宗の廟も一つであるのに、仏寺は千余もある。一寺を建てれば数百家の民居を移し、内帑を数十万も費やす。これは筋が通らない。林俊の言い分は当を得ており、罪すべきではない、と。帝はこの疏を得て不快であった。
- 王恕は堂々と論じ立てて少しも避けるところがなかった。詔に応じて陳言したものが前後で二十一、みずから建言したものが三十九、いずれも権幸を強く阻むものであったので、天下の人々は心を傾けて慕った。朝廷に不当な事があると、人々は必ず「王公はなぜ言わぬのか」と言い、また「公の疏はもうすぐ届くだろう」と言った。はたして王恕の疏が届いた。当時の歌に「兩京十二部、獨り一王恕有り」といわれた。こうして貴顕・近臣はみな王恕を睨み、帝もまた次第に彼を煩わしく思うようになった。
- 成化二十二年(1486年)、伝奉官(正規の銓選を経ない任官)の起用が再開されると、王恕の諫言はことに切実であった。帝はいよいよ喜ばなかった。王恕は先に太子太保を加えられていたが、南京兵部侍郎の馬顯が辞職を願い出た機に乗じて、突然その上奏への批答に付する形で、王恕の宮保の官を落として致仕させた。朝野は大いに驚いた。
- 王恕はたびたび巡撫となり、侍郎から尚書に至るまで、いずれも留都(南京)にあった。直言を好んだために、ついに中央の朝廷に立つことができなかった。しかし帰郷してからその名声はいよいよ高く、臺諫の推薦は一か月として絶えなかった。工部主事で仙居の人である王純は、王恕を漢の汲黯になぞらえたため、杖罪に処され思南推官に左遷された。
孝宗朝の吏部尚書
- 孝宗が即位すると、廷臣の推薦によって召されて吏部尚書となり、まもなく太子少保を加えられた。
- これより先、内外で大學士の劉吉を弾劾する者は必ず王恕を推薦していたので、劉吉は大いに恨み、王恕の推挙するところをことごとくひそかに妨害した。
- 𢎞治元年(1488年)閏正月、言官が兩廣總督の宋旻・漕運總督の邱鼐ら三十七人を降格・罷免すべしと弾劾した。中には平素から人望のある者も多かったが、劉吉はついに中旨を取ってこれを許可させ、その章を吏部に下さなかった。王恕は自分の職掌が果たせないとして辞職を願う疏を奉ったが、許されなかった。
- 陝西の巡撫が欠員となり、王恕は河南布政使の蕭禎を推した。詔は別人を推せというものであったので、王恕は執奏して言った。陛下は不肖の臣に銓選の任を委ねられた。推挙が功を奏さなければそれは臣の罪である。今、陛下はどうして蕭禎が無能だと知って拒まれるのか。必ずや左右の近臣に思うところがあるのだろう。臣は風向きをうかがって禄位を固めることはできない。そもそも陛下が蕭禎を用いるべきでないとされるなら、それは臣が用いるべきでないということだ。骸骨を乞いたい、と。帝はついに蕭禎を用いた。
- 言官の多くは、王恕は賢者であり高齢でもあるから激職に就けるべきではなく、内閣に置いて大政に参与させるべきだと述べた。最後に南京御史の呉泰らも重ねてこれを言った。帝は「朕は蹇義・王直の先例により王恕を吏部に置いたのだ。彼に諮る議があれば聴かなかったことはない。なぜ内閣でなければならぬのか」と言った。
- 王恕は経筵に侍していたとき、帝が暑さに苦しむのを見て、先例に従い酷寒・酷暑には一時中止し、なお講義は宮中で進めるよう請うた。すると進士の董傑、御史の湯鼐、給事中の韓重らが交々上章して王恕を論駁した。王恕は罪を待つとして解職を請うたが、優詔をもって許されなかった。
- 王恕は上言した。臣は国の厚恩を蒙り、日夜報いることを思っている。人は陛下が臣を重んじすぎるのを見て、臣に望むところが大きくなりすぎ、宋の司馬光の先例のように朝政をことごとく改めさせようとする。臣の才が司馬光に遠く及ばないのは論ずるまでもないが、今がそもそも元祐の時であろうか。しかも六卿は職を分かち、それぞれ司るところがある。臣がどうして越権して謀れようか。ただし董傑らの責めはもっともであり、臣に逃れる術はない。放還を願う、と。帝はまた優詔をもってねんごろに引き留めた。王恕は感激し、いよいよ身をもって国事に当たった。
- 病で休暇中に、帝が宦官を多く抜擢し、蟒衣を賜り荘田を給する者まで出たと聞き、疏を具して切諫した。中官の黄順が匠官の潘俊を起復させて役に就かせようと請うたときも、王恕は小臣のために重典を壊してはならないと言い、再度執奏したが、結局は許可と報じられた。
- 劉吉はもとより王恕を恨んでいた。劉吉が陥れた壽州知州の劉槩および言官の周紘・張昺・湯鼐・姜綰らを、王恕は上章して力の限り救った。劉吉はこれでいよいよ恨み、私党の魏璋らと結んでともに王恕を排斥した。王恕が前後に推用した羅明・熊懐・强珍・陳夀・邱鼐・白思明らは、いずれも魏璋らにそそのかされて糾弾・論駁された。王恕は志が行われないと知り、続けて上章して辞職を求めた。帝はそのつど慰留し、高齢を理由に午朝を特に免じ、大風雨や大雪のときは早朝も免じた。
- 徽王の見沛が德州の田を賜りたいと願い出て、すでに勅許を得ていた。王恕は、王は国家の近親であるから、わずかな土地を争って小民の生業を失わせるべきではないと言い、帝は婉曲な言葉で答えた。
- 盧溝橋が完成すると、中官の李興が文思院副使の潘俊らへの叙官を願い出た。王恕は、営造は常の職掌であるのにどうして功を録することができようか、成化の末になって初めてこうしたことがあったが、陛下は治世の初めに幸いにもこれを改めた。なぜまた行うのか。しかも山陵の大工事でさえ昇進があったとは聞かぬ。前例を持ち出して願い出られたら、何と言って拒むのか、と述べ、帝は容れた。
- その後、京城の河橋を修めると、帝はまた李興の願いに従って四人に官を授け、五人に冠帯を許した。王恕は執奏したが従われず、再び疏をあげて争った。臣は銓選を掌る職にあるから、道義として言を尽くすべきである。再度の疏でも天聴を翻せないのは、すでに許したことは変えられないとお考えだからだろう。だが事は当を得ることを求めるもので、当を得ていないなら十度改めても差し支えない。さもなければ救えぬ弊害が生じる、と。上聞と報じられた。
- 前後して、災異にちなんで七事を、星の変にちなんで二十事を陳べ、いずれも時弊を衝くものであった。
- 夀寧伯の張巒が勲号と誥券を請うたとき、王恕は言った。錢・王の両太后は中宮に正位して数十年、錢承宗・王源はそれから初めて封爵を得た。今の皇后が立ってわずか三年で張巒はすでに伯に封ぜられている。にわかにこの請いがあるのは聖徳を累わすもので、許してはならない、と。
- 通政經厯の髙祿は張巒の妹婿であり、同司の参議に飛び越えて昇進した。王恕は、天下の官は天下の士を待つためのものであり、貴戚に私して公議を妨げてはならぬと言った。中旨によって次等の御醫である徐生が院判に飛び級で補されたときも、王恕は上等の考課の者を選ぶよう請うたが容れられなかった。文華殿中書舎人の杜昌らが縁故を頼って昇進したときも、御醫の王玉がみずから申し出て昇官を願ったときも、王恕は力を尽くして争い、いずれも止めさせた。
邱濬・劉文泰との軋轢と致仕
- このころ劉吉はすでに罷免されていたが、邱濬が入閣し、これもまた王恕とそりが合わなかった。はじめ邱濬は禮部尚書として詹事府を掌り、王恕とともに太子太保であった。王恕は六卿の首席であったが、席次は邱濬が上であった。邱濬が入閣すると、王恕は吏部の長として譲らなかったので、邱濬はこれを不快に思った。
- 王恕が天下の庶官を考察して罷免したもののうち、邱濬が旨を調えて留任させた者が九十余人あった。王恕はたびたび争ったが通らず、そこで強く罷免を求めたが許されなかった。
- 太醫院判の劉文泰なる者は、かつて邱濬の家に出入りして昇官を求め、王恕に阻まれたので王恕を深く恨んでいた。王恕は郷里にいたころ、人に自分の伝を書かせ、版木に刻んで世に行っていた。邱濬はそれを「直を売り君上を謗るもので、朝廷に聞こえれば罪は小さくない」と評した。劉文泰は心を動かし、みずから奏章を作って、除名されていた都御史の呉禎に文章を整えさせ、王恕が銓選の法を乱したこと、また伝の中でみずからを伊尹・周公になぞらえ、留中となった奏疏について一律に「不報」と記して先帝が諫言を拒んだことを世に示しており、人臣の礼を欠く、と訐発した。これによって思いがけぬ災いを負わせようとしたのである。
- 王恕は、この奏が邱濬の指図から出たものと察して抗言した。臣の伝は成化二十年に作られ、致仕したのは二十二年であるから、先帝に望みをかけたものではない。しかも伝に載せたところはみな先帝が諫言を容れた美点を明らかにするものであり、どうして過ちを世に示したことになろうか。劉文泰は無頼の小人で、これには必ず文学に老練で陰謀の多い者が背後にいる、と。
- 帝は劉文泰を錦衣衞の獄に下して取り調べさせ、事実が明らかとなったので、邱濬・王恕および呉禎を逮捕して対決させるよう請うた。帝は内心不快で、劉文泰を御醫に貶し、王恕には名を売ったと責めて刻んだ版木を焼かせ、邱濬は不問に付した。王恕は再び疏をあげて弁明を請うたが従われず、そこで強く辞職を求めた。駅伝で帰ることは許されたが、敇は賜らず、月々の廩米や年ごとの隷卒もかなり減らされた。朝廷の議論はこれによって邱濬を是としなかった。邱濬が没したとき劉文泰が弔問に来ると、邱濬の妻は叱って追い出し、「お前のせいで相公は王公を陥れ、不義の名を負ったのだ。何の弔いか」と言った。
晩年と評価
- 王恕は内外に官歴を重ねること五十余年、剛正清厳で終始一貫していた。推挙した耿裕・彭韶・何喬新・周經・李敏・張恱・倪岳・劉大夏・戴珊・章懋らは、いずれも当時の名臣であった。長く在野に埋もれていた賢才を、遅れることを恐れるように抜擢した。𢎞治の二十年間、正しい人々が朝廷に満ち、職務が整い、極盛と称されたのは、王恕の力である。
- 武宗が即位すると行人を遣わして敇を持たせて見舞い、羊と酒を賜り、廩米・隷卒を増やし、「忠直な言を隠すな」と諭した。王恕は国家の大政数事を陳べ、帝は優詔をもって答えた。
- 正徳三年(1508年)四月に没した。享年九十三。平生は人の倍も食べたが、没した日はわずかに減った。戸を閉じて独り坐していると、突然雷のような音がして白い気が立ちこめ、覗いてみるとすでに瞑目していた。訃報が届くと朝を廃し、特進左柱國・太師を贈り、端毅と諡した。五子十三孫があり、賢者・顕官が多かった。
王承裕(王恕の子)――附伝
- 末子の承裕は字を天宇といい、七歳で詩をよくし、二十歳ころに『太極動静圖説』を著した。王恕が吏部にあったとき、日々賓客に接するよう命じたので、これによって天下の賢才をあまねく知り、選用に誤りがなかった。
- 𢎞治六年(1493年)の進士。王恕が致仕すると、承裕もただちに帰郷を願い出て養侍した。
- 起用されて兵科給事中に授けられ、出て山東・河南の屯田を管理し、登州・萊州の糧額を三畝につき一斗の徴収に減らし、青州・彰徳の軍田で先に王府に賜っていた三百六十余頃を返還させた。
- 武宗が立つと、たびたび遷って吏科都給事中となったが、言事によって劉瑾に逆らい、米を罰として塞上に納めさせられた。再び遷って太僕卿となった。
- 嘉靖六年(1527年)、官を重ねて南京戶部尚書となり、滞納の税一百七十万石を清算し、余剰の銀四万八千余両を積んだ。帝は自筆で「清平正直」と書いて褒めた。部にあること三年で致仕した。没後、太子少保を贈られ、康僖と諡された。