東厰と外戚を糺す
- 胡獻は字を時臣といい、揚州興化の人。𢎞治九年(1496年)の進士で、庶吉士に改まり、御史に任じられた。
- ひと月余りでさっそく時政数事を極論した。屠滽が吏部尚書となり、王越・李蕙が都御史となったのは、みな中官の李廣と通じて得たものである。李廣が奸を通せるのは、陛下が政を議するのに大臣を用いず李廣の輩を用いておられるからである。祖宗の時は常に内閣にお出ましになって章奏を商議し、経筵・日講ではすべて時政の得失を陳べ、また時ならず儒臣を接見された。どうか陛下は旧制に復されたい。
- 京・通二倉の総督・監督の内臣は、米一万石を収めるごとに白金十両を強要する。年に四百万石を運ぶとして計算すれば一人につき四千両となる。また各々が斗級二、三百人を占有して月銭を納めさせている。そもそも倉儲の監督には戸部があるのに、中官を用いる必要がどこにあるのか。罷めて遣り返されたい。
- 京操の軍士は数千里の彼方から来るのに、総兵・坐営などの官がそれぞれ分属させて月銭を納めさせている。厳しく革めてその困窮を癒されたい。
- 陛下は災に遇って修省し、去春に言を求められた。諫官および郎中の王雲鳳、主事の胡爟にはみな論奏があったが、留め置かれて返答がなく、王雲鳳はまもなく罪を得た。これでは修省しないのと何が違うのか。どうか聖心をもって断じ、およそ興革すべき利弊はただちに施行されたい。
- 東厰の校尉はもともと奸を捕らえるためのものだが、近ごろはただ内戚や中官が憤を晴らし怨みに報いるために用いられている。御史の武衢が寿寧侯の張鶴齡および太監の楊鵬に逆らい、主事の毛廣が太監の韋泰に逆らったのは、いずれも校尉に摘発され、些細な事を穿鑿して罪名を誣いられた。朝廷こぞってその冤を知りながら敢えて言う者がない。臣も今日これを言えば後日必ず陥れられると知っている。しかし臣は懼れない、と。
- 疏が入ると張鶴齡と韋泰がそれぞれ弁明の疏を上げた。ちょうど給事中の胡易が監庫中官の賀彬の貪欲を弾劾して罪に落とそうとしたところ、賀彬も胡易を訐った。帝はそこで胡獻と胡易を詔獄に下し、胡獻を藍山丞に謫した。久しくして胡易は釈された。
- 胡獻は赴任せぬうちに宜陽知県に遷った。馬文升がたびたび朝廷に薦めたので、南都察院経歴に遷った。武宗が即位すると広西提学僉事に抜擢され、福建提学副使に遷ったが、任に就かぬうちに卒した。
武衢・毛廣・胡易・任儀・車梁(胡獻伝附)
- 武衢は沂水の人。成化二十年(1484年)の進士。御史から雲南通海主簿に謫され、汾州知州で終わった。
- 毛廣は平湖の人。成化二十年(1484年)の進士。その事蹟は考えるすべがない。
- 胡易は寧都の人。𢎞治三年(1490年)の進士。吏科給事中となった。華昶が程敏政を弾劾したとき、法司の白昻・閔珪が旧章に拠って六科に共同で鞫問させたところ、東厰が「胡易らはみな華昶の同僚であり、審問に加わるべきでない」と弾劾し、旨を得て詔獄に下した。白昻・閔珪は罪を請い、ともに俸を停められた。華昶の獄が成っても胡易らはなお繋がれていたが、大臣が申し立てて、ようやく復職を命じられた。
- 𢎞治年間に言官で内臣に逆らって罪を得た者には、ほかに任儀と車梁がある。
- 任儀は閬中の人。成化二十三年(1487年)の進士。御史となった。𢎞治三年(1490年)秋、詔により大興隆寺で斎が修められたとき、理刑知県の王嶽が騎馬で通り過ぎたので、中使が引き倒して辱め、寺の前に跪かせた。任儀は不平として中使の罪を弾劾したが、姓名をたまたま誤ったため、あわせて任儀も吏に下された。中部知県として出、山西参政で終わった。
- 車梁は山西永寧の人。𢎞治三年(1490年)の進士。御史となった。𢎞治十五年(1502年)、時政を条奏し、その中で「東厰・錦衣衛が捕らえた盗は、先に厳しい刑で調書を作ってから法司に送るので、法司は覆すことができない。今後はまっすぐ法司に送り、先に拷問せぬようにされたい」と言った。章は下されたが返答はなかった。
- 東厰を主る者が「車梁の従父の郎中・車霆は先に罪により東厰に摘発された。私憤を挟んで妄言している」と言ったので、車梁は詔獄に下された。給事中と御史が章を交わして救解し、ようやく釈された。漢陽知府で終わった。