初政に背く八事
- 張𢎞至は字を時行といい、華亭の人。南安知府の張弼の子である。𢎞治九年(1496年)の進士に挙げられ、庶吉士に改まり、兵科給事中に任じられた。
- 𢎞治十二年(1499年)冬、初政がしだいに終わりを全うできなくなっている八事を陳べた。
- はじめは伝奉官をほとんど残らず汰めたのに、近ごろ匠官の張廣寧らは一度の伝奉で百二十余人、少卿の李綸、指揮の張玘らは二度の伝奉で百八十余人に及ぶ。初政と異なる一。
- はじめは繼曉を追罰し番僧・仏子を逐ったのに、近ごろは斎醮が絶えない。初政と異なる二。
- はじめは萬安・李裕の輩を、朝に弾劾すれば夕に斥けたのに、近ごろは数十の疏で弾劾された尚書の徐瓊のような者がなお位にある。初政と異なる三。
- はじめは聖諭に「大政があれば大臣を召して面議する」とあったのに、近ごろは上下が隔たっている。初政と異なる四。
- はじめは増設の内官を撤したのに、近ごろは還した者を再び出し、革めた者を再び増やしている。初政と異なる五。
- はじめは詔旨を慎重にして左右が妄りに干渉できなかったのに、近ごろは陳情や恩を乞う願いがおおむね許されている。初政と異なる六。
- はじめは兵部に旧章を明らかにさせ、みだりに武職への昇進を乞う者は奏して処罰させたのに、近ごろは昇進を乞うても拒まれない。初政と異なる七。
- はじめは光禄の供給を節したのに、近ごろは無駄飯が日々増え、太倉の銀を移して市中の物を掛けで買っている。初政と異なる八、と。
- 帝は担当官に下した。
- 辺将の王杲・馬昇・秦恭・陳瑛が機を失して死罪と論ぜられながら長く繋がれていたので、張𢎞至は速やかに刑を正すよう請うた。
- 親王が藩に赴くとき、宿営する所にはおおむね蓆殿を営み、従官の幕次までも絨毯や錦帛で飾っていたが、張𢎞至の言により多くが減らされた。
- 孝宗の晩年、廷臣の請いに従って官を遣り騰驤四衛の虚偽の名目の弊を調べさせようとしたが、太監の寗瑾の言によって取りやめとなった。張𢎞至が抗章して争い、兵部も同じことを言ったので、ついに調査された。
- 武宗が立つと、戸科右給事中として命を奉じて安南に使いし、還って都給事中に遷った。母の喪で帰り、卒した。