李廣の八大罪を弾劾
- 葉紳は字を廷縉といい、吳江の人。成化末年の進士で、戸科給事中に除せられ、吏科に改まり、礼科左給事中を歴任した。
- 𢎞治十年(1497年)、太子が十七歳になってもまだ出閣していなかったので、葉紳は講官を選んで教諭させるよう請うた。
- まもなく修省に際して八事を陳べ、中官の李廣を斥け、あわせて尚書の徐瓊・童軒・侯瓚、侍郎の鄭紀・王宗彜、巡撫都御史の劉獻・張誥・張岫ら二十人を弾劾して罷斥を乞うた。末尾に「大奸を除く」として、もっぱら李廣の八大罪を弾劾した。
- 焼錬と称して不経の薬を陛下に進め欺いたのが罪の一。太子のために寄壇を立て煖疏の説を興したのが罪の二。皇親を焚きつけて恩寵を求めさせたのが罪の三。盗んで玉泉を引き私邸を巡らせたのが罪の四。真っ先に僥倖の門を開き奸貪をほしいままにしたのが罪の五。太常の崔志端、真人の王應裿の輩が李廣を教主真人と称し、李廣がその代わりに良い官を求め玉帯の下賜を乞うたのが罪の六。果戸を名目として畿内の民の土地を侵奪し、危うく変を激発させかけたのが罪の七。四方の上供の輸納にあたって威をもって取り勢いで逼り、民を破産させたのが罪の八。
- 内では皇親・駙馬が父のように仕え、外では総兵・鎮守が「公」と呼ぶ。陛下はどうしてこの大奸を肘腋に養って駆逐しようとされないのか、と。
- 御史の張縉らも同じことを言った。帝は「しばらく措いておけ」と言ったが、数か月を過ぎて李廣はついに罪を得、鴆を飲んで死んだ。
- 葉紳はさらに大臣の恩廕・葬祭が濫りであることを極論し、担当官に議させて、かなり減らされた。尚寶少卿に抜擢され、卒した。