言路にあっての諫争
- 龎泮は字を元化といい、天台の人。成化二十年(1484年)の進士で、工科給事中に任じられた。
- 𢎞治年間、中旨で銅鼓を巧みに打つ者を召し取ろうとしたので、龎泮は疏して諫めた。たびたび遷って刑科都給事中となった。
- 副使の楊茂元が逮えられたとき、龎泮は同列を率いて救い、楊茂元は軽い譴責で済んだ。
- 𢎞治九年(1496年)四月、帝が岷王の弾劾を受けて武岡知州の劉遜の逮捕を命じたとき、龎泮は同官の吕獻らを率いて言った。錦衣は天子の親軍であり、不軌や妖言の重大事でなければ軽々に遣わすべきでない。劉遜が坐した事は軽微であるのに、王の奏は証人百人を巻き込んでおり、勢い全員を逮えることは難しい。撫按の官に敕して実情を調べさせるべきである、と。
- 疏が入ると旨に逆らい、龎泮ら四十二人および御史の劉紳ら二十人を詔獄に下したので、六科の役所は空になった。吏部尚書の屠滽が中書に部院の封事を代わって受け取らせるよう請うた。御史の張淳は使いから還って自分だけ加わらなかったことを恥じ、抗疏して論じた。考功郎中の儲巏も諫め、屠滽らは重ねて九卿を率いて救った。帝はそこで龎泮らを釈し、みな俸三か月を停めた。
- 中官の何鼎が直言によって下獄し、楊鵬・戴禮が伝手を求めて司礼監に入ったとき、龎泮らは「何鼎は狂直だが容れるべきである。楊鵬らは先朝で罪を得た者であり、機密に参与させれば害は小さくない」と言った。御史の黄山・張泰らも同じことを言ったので、帝は怒って「外廷がどうして内廷の事を知るのか」と詰り、答弁を命じて、龎泮らの俸半年を停めた。
- 威寧伯の王越が起用を図ったこと、中官の蔣琮・李廣に罪があったこと、外戚の周彧・張鶴齡が家奴を放って人を殺したことを、龎泮はいずれも極論したので、直言の名は甚だ顕れた。
- 𢎞治十一年(1498年)、福建右参政に抜擢された。中官が宋の儒者・黄幹の宅を奪って僧庵としていたのを、龎泮は書院に改めて黄幹を祀った。河南右布政使に遷り、中旨で洛陽の牡丹を召し取ろうとしたので疏して停止を請うた。広西左布政使に転じ、致仕した。
吕獻(龎泮伝附)
- 吕獻は浙江新昌の人。成化二十年(1484年)の進士で、刑科給事中に任じられ、事に坐して闕廷で杖打たれた。
- 𢎞治年間、詔により駙馬を選んだとき、李廣が富人の金を受けて密かに便宜を図ったのを吕獻が摘発し、直言の名があった。正徳年間、南京兵部右侍郎で終わった。