皇壇器の諫言と投獄
- 彭程は字を萬里といい、鄱陽の人。成化末年の進士。𢎞治初年に御史に任じられ、京城を巡視した。降人が畿甸に雑居して多く盗を働き、事が発覚すると外戚や宦官の家に投じて巣窟としていたが、彭程は毎度、機先を制したので、事が起これば必ず捕えられた。
- 両浙で塩を巡り、交代して還って光禄を巡視した。
- 𢎞治五年(1492年)、上疏して言った。臣はたまたま光禄が皇壇の器を作っているのを見た。皇壇とは先帝が斎を修め法を行われた所である。陛下が即位されてこの類はことごとく廃斥された。どうしてなお皇壇があって、わざわざ器を備えるのか。光禄の金銭はすべて民の膏血であり、当を得た用い方でさえ民を病ませることを恐れるべきなのに、まして無用の地に投ずるとは。
- 先ごろ李孜省・繼曉の輩が邪説を唱え、先帝が篤く信じられたのは、遠く福寿を望まれてのことである。今、二人はすでに重刑に伏した。禍患の到来にあたって二人ですら自ら免れられなかったのに、どうして他人を福寿にできようか。もし陛下に本当にこの挙があるなら、萌すうちに抑えられたい。もしないのであれば、担当官が迎合した罪を治められたい、と。
- 帝にはもともと皇壇の器を造れという命はなく、光禄が念のため備えていただけであった。帝は彭程の奏を得て大いに怒り、先帝の過ちを暴き立てたものとして、ただちに錦衣の獄に下した。
- 給事中の叢蘭も光禄を巡視していたので、続いて上疏して論じた。帝は叢蘭を宥し、光禄卿の胡恭らの俸を奪い、彭程を刑部に付して罪を定めさせた。尚書の彭韶らは贖杖のうえ還職と擬したが、帝は死刑に処そうとして繋いでおくよう命じた。彭韶らは重ねて疏して救い、彭程の子の彭尚は三たび章を上げて父に代わって死ぬことを乞うたが、ついに聴かれなかった。
- このとき陝西を巡按していた御史・嵩縣の李興も酷刑に坐して獄に繋がれていた。朝審のとき李興と彭程の罪状が上がり、詔により李興は斬、彭程は家族ともども隆慶に戍らせるとされた。
- 文武大臣の英國公張懋らが合同で疏して言った。李興が死なせた者の多くは罪犯であり、死をもって当てるべきではない。彭程は諫めることを職としており、これで辺に戍らされるなら、奸を働き法を枉げる者はどう処するのか、と。尚書の王恕もまた特に疏して救った。そこで李興は死を減じて杖百のうえ妻子とともに賓州に戍らされたが、彭程はついに減じられなかった。
- 彭程の母の李氏は年老いて他に子がなく、闕を叩いて留めて世話をさせてほしいと乞うた。南京給事中の毛珵らも奏して言った。昔、劉禹錫は王叔文に付いて遠方に竄されるところ、裴度がその母の老いていることを理由に請うて連州に改められた。陛下の聖徳は唐の中主の比ではなく、彭程の罪も劉禹錫とは異なる。いささかの憐れみをもってその母子を全うされたい、と。許されなかった。
- 子の彭尚は父に従って戍所に行き、そこで広西の郷試に挙げられた。翌年、帝は彭程の母の老いを念って放ち還した。
- その後、劉瑾が政を乱したとき、彭程が塩を巡ったときにいくらか課額を欠いたことを追及して、その家に償わせた。彭程が死んで久しく、ただ孫娘一人を遺すのみで、財産を尽くしても足りず、その娘まで売られた。道行く人はみな涙を流した。