彗星に際しての諫言
- 魏元は字を景善といい、朝城の人。天順元年(1457年)の進士で、礼科給事中に任じられた。
- 成化初年、萬貴妃の兄弟が驕横であったので、魏元は疏して弾劾した。
- 成化四年(1468年)、慈懿太后が崩じて別に葬られようとしたとき、魏元は同官三十九人とともに抗章して極諫し、御史の康永韶も同官四十一人とともに争って文華門に伏して哭き、ついに礼どおりにさせた。
- その年九月、彗星が現れたので、魏元は諸給事中を率いて上言した。
- 春以来、災異が重なって起こり、近ごろまた彗星が東方に現れて光が台垣を払った。いずれも陰が盛んで陽が微弱な証である。臣が聞くに、君と后は天と地のようなもので、これに並ぶものがあってはならない。伝え聞くところでは宮中に、寵愛を盛んに受けて中宮に匹敵する者があるという。尚書の姚䕫らがかつてこれを申し上げたとき、陛下は「内の事は朕が自ら処置する」と仰せられた。息を殺して傾聴して半年になろうとするが、昭徳宮への進膳が少しも減ったとは聞かず、中宮への分が少しも増えたとは聞かない。宮闈は遠いといっても、視聴は咫尺のようなものである。臥所の些細な事も謫となって天象に現れる。畏れずにはいられない。しかも陛下は御年若く、震位はなお空しい。どうして宗社の大計を、愛情を独占し情を一人に注ぐ者に委ね、国本を固め民心を安んずる方途を求めずにおられようか。どうか伉儷の義を明らかにし、嫡妾の別を厳にして、尊卑をはっきりさせそれぞれ分に安んじさせられたい。本支百世の基はまことにここにある。
- 四方は旱と水害が相次ぎ、民の困窮は日々切迫し、荊襄の流民は変を告げている。陛下は民の父母でありながら、初めから警戒の色なく、ただ先例に従って部に付して施行させておられるだけである。しかも戸部尚書の馬昻は、奏報があるたびに、上の意が喜んでいれば「担当官に移して処置させよ」と言い、上の意が怒っていれば「事が詰まって行い難い」と言う。少しでも利害があれば聖裁を仰ぐ。首鼠両端で決断せぬのでは、民は何を望めよう。ただちに徴税を罷め内帑を出し、官を遣って賑わし養われたい。それでいくらか人心を慰められる。
- 陛下は異教を崇信され、誕生の日ごとに資財を重ねて糜し、広く斎醮を建てられる。西僧の扎實巴勒らには法王などの号を加え、賜与は並外れて多く、外出には輿に乗り金吾の仗を先導とし、搢紳は道を避け、奉養は親王を上回る。理に背き紀を乱すこと、これより甚だしいものがあろうか。どうか名号を革め、本国へ送り返し、みだりな賜与を追徴して饑民を賑わし、あわせて寺観に敕して永く斎醮を請うて国用を蠹むことのないようにされたい。
- 天下の財は官になければ民にある。今、公私ともに困窮しているのは、玩好が多すぎ賞賜に節がないからである。塔寺を営み珍奇を買い求め、一物の些細なものでも累価は巨万に上る。国帑がどうして詰まらずにいられよう。どうか淫巧を退け、宴遊や諸々の銀場、急がぬ事務を停止し、すべて禁止されたい。
- 両京の文武大臣には奸貪の者が少なくなく、競って蒙蔽している。陛下はその位が高いからと去らせるに忍びぬと思われるな。旧臣だからとしばらく寛容されるな。それぞれ自ら陳べて免を請わせ、大体を全うされるがよい。位を貪って去らぬ者は言官が糾弾すべきである。しかして臣らは濫りに言路に居って時に補うところがない。罷めて帰らせ、不職の戒めとしていただきたい、と。
- 帝は優詔をもって褒め答えたが、結局は用いることができなかった。
- 魏元はたびたび遷って都給事中となり、福建右参政として出た。海道を巡視して越海の私販を厳禁したので、大商人が重宝を賄賂に贈った。魏元は怒って叱り出した。母の喪で帰り、墓に廬すること三年、喪が明けて江西参政として起用され、卒した。
康永韶(魏元伝附)
- 康永韶は字を用和といい、祁門の人。郷試に挙げられ、国学に入り、選ばれて御史に任じられた。
- 成化初年、畿輔を巡按し、尚書の馬昻が市民の地を抑え取ったことを弾劾した。
- 成化四年(1468年)、同官の胡深・鄭己らとともに慈懿太后の山陵の件を争った。彗星が現れると、また同官とともに八事を上言した。大意は魏元の前の疏と似ていた。
- 両京の大臣が庶僚を考察したとき、去留に不当が多かったので、康永韶らはさらに大臣が私を行っていると弾劾し、あわせて刑部主事の余志ら十二人の罪を摘発した。余志に訐られて、ともに詔獄に下された。
- 康永韶は順昌知県に謫され、さらに福清・惠安に転じた。久しくして天文を知る者として推薦する者があり、中旨で召し還されて欽天監正を授かり、太常少卿に進んで監の事を掌った。
- 康永韶は御史であったときは直言の名があったが、このときになって迎合して寵を取るようになり、占候には隠諱が多く、はなはだしくは災を祥とした。陝西が大飢饉のとき、康永韶は「今春の星変には大きな咎があるはずだったが、秦の民が飢え死んだことでちょうど相殺された。まことに国家無疆の福である」と言った。帝は甚だ喜び、中旨で礼部右侍郎に抜擢し、なお監の事を掌らせた。暦に誤字が多かったことに坐して職を落とされ帰った。
胡深・鄭己・董旻(魏元伝附)
- 胡深は定遠衛の人。天順末年の進士。慈懿太后の山陵の件を争った後、さらに同官の陳宏・鄭己・何純・方昇・張進禄とともに上疏して奸邪を斥けるよう請い、学士の商輅、尚書の程信・姚䕫・馬昻を痛烈に非難したが、帝は容れなかった。
- 翌日、給事中の董旻・陳鶴・胡智もまた商輅らを弾劾し、疏を御前に呈した。先例では諫官の弾劾の章は大廷で読み上げるのでなければ封じて進めるもので、読まずに面前に呈することはなかった。帝は不快として「大臣の進退には体がある。董旻らは旧章に従わず朝儀を乱すのか」と言った。
- 商輅らが退休を乞うと、帝はただ馬昻の辞任だけを聴した。姚䕫は憤って章を連ねて辞職を求めた。胡深と董旻らは重ねて言葉を合わせて攻め、姚䕫を甚だ力めて非難した。帝は怒って胡深ら九人を獄に下した。
- これより先、御史の林誠もかつて商輅を弾劾したが容れられず、病と称して去っていた。帝はあわせて林誠を吏に付した。毛𢎞らがみな救解を論じ、商輅もまた寛大を請うたので、それぞれ杖二十を加えて官に復した。
- まもなく胡深は陝西を巡按したとき冤を訴えた者を杖殺したことに坐して黔陽丞に謫され、やや遷って鬱林知州となり、卒した。
- 鄭己は山海衛の人。成化二年(1466年)の進士。陝西を巡按して辺地の未納の賦を免ずることを請い、辺兵を分けて壮者は戦守に、老弱は耕牧に当たらせるよう請い、章は担当官に下された。定西侯の蔣琬が甘粛を鎮していたとき、鄭己はその罪を調べようとしたが言葉が漏れて逆に弾劾され、宣府に戍らされた。鄭己は矜り高ぶる性格であったので、当時の議論はさほど惜しまなかった。
- 董旻は樂平の人。成化二年(1466年)の進士。吏科都給事中を歴任し、吏に訐られて詔獄に下され、石臼知県に謫された。孝宗のとき四川参議となり、卒した。