汪直・陳鉞との対決
- 强珍は字を廷貴といい、滄州の人。成化二年(1466年)の進士で、涇縣知県に除せられ、賦額の減額を請うたので民はその徳を慕った。御史に抜擢された。
- はじめ遼東巡撫の陳鉞が釁を啓いて敵を招き、敵が来ると事実を隠して欺くことに努めた。巡按御史の王崇之が陳鉞を弾劾すると、陳鉞は大いに恐れて汪直に相談し、王崇之を誣告して詔獄に下し、贖罪の納入をさせて延安推官に転じさせた。
- 汪直と陳鉞が用兵して功を論じようとしていたとき、敵が大挙して侵入したのに、中官の韋朗、総兵官の緱謙らは隠して報告しなかった。强珍が巡按に赴いて陳鉞の罪を正すよう請い、兵部尚書の余子俊らも「陳鉞はたびたび死罪に当たることを犯しており、宥すべきでない」と奏したが、帝は従わなかった。
- まもなく指揮の王全らが朶顔衛の人を誘い殺したので、强珍がその実状を摘発し、王全らはみな罪を得た。
- 汪直は自ら大功があると誇っていたところで、强珍の疏を聞いて怒った。ちょうど辺の巡視から還ったとき、陳鉞が五十里まで郊迎して「强珍が自分を誣いた」と訴えたので、汪直はますます怒り、「强珍が弾劾したのはすべて妄言である」と奏した。詔により錦衣千戸の蕭聚を遣って取り調べ、械につないで京に送らせた。到着すると汪直はまず拷問し、その後に奏聞したので、奏事不実として贖罪の納入に当たったが、詔でとくに遼東に戍らされ、あわせて兵部および先に陳鉞を弾劾した言官が責められた。
- 三年居って汪直が失脚すると、强珍は官に復して致仕した。𢎞治初年、山東副使として起用され、大理少卿に抜擢され、翌年、右僉都御史として宣府を巡撫した。
- 当時、緱謙はすでに罷免されていたが、强珍は「緱謙は才力があって用いられる」と留任を奏した。給事中が「緱謙はたびたび機を失している」と言い、强珍は答えられなかった。奏によって身を保ち、南京右通政に改められた。まもなく母の老齢を理由に退休を乞い、久しくして卒した。