明史卷一百八十 列傳第六十八 李森

憲宗初年の建言

  • 李森は字を時茂といい、厯城の人。天順元年(1457年)の進士で、戸科給事中に任じられた。気概を負って敢えて言った。
  • 憲宗が立つと上疏し、朝覲の官が民の害となる取り立てや徴求を行うことを禁ずるよう請うた。吏部尚書の王翺がその言に従うよう請い、帝は詔を下して禁止した。
  • ほどなく言った。近ごろ功なくして侯伯・都督に進む者があり、才徳なくして九列に位する者があり、囲碁・弾琴・医卜などの技能で官職を得る者がある。名爵は日々軽くなり廩禄は日々費やされる。これは天下の公器を弄び、国家の大柄を棄てるものである。今後は人を選んで授け、才なき者が競い進むことのないようにされたい、と。あわせて武官の黜陟を厳しくし、逃亡兵と架空の糧を調べることを請い、いずれも許された。
  • 御史の謝文祥が姚䕫を弾劾して下獄したとき、李森は同官とともに救ったが容れられなかった。
  • 翌年夏、日食があり、瓊山県で地震があったので、李森は疏して十事を陳べた。
  • まもなく、貴幸の者が民の財産を侵奪していることから、諸給事中を率いて言った。かつて先帝の敕を奉ずるに、皇親で軍民の田を強占する者は容赦なく罪し、投献した者は辺に戍らせるとあり、一時は貴戚も敢えて犯さなかった。先ごろ給事中の邱𢎞が権貴の請乞を絶つよう奏し、陛下もこれをお聞き入れになった。しかるに外戚の錦衣指揮・周彧が武強・武邑の田六百余頃を求め、翊聖夫人の劉氏が通州・武清の地三百余頃を求めたのを、詔でいずれも許された。何と前の敕に背くことか。彼らの欲は谿壑のごとく満たし難く、畿内の肥沃な地は限りがある。小民の衣食はすべてここから出るのに、一朝にして奪われては何によって生きよう。しかも本朝百年来、戸口は日々増えている。どうして耕さぬ閑田がなお残っていようか。名は奏請だが実は豪奪にすぎない、と。帝はその言を善しとしたが、既に賜ったものは依然として問わなかった。
  • 山西が災に遭い、山東および杭・紹・嘉・湖が大水となったとき、李森らは免除と賑給を請い、帝はいずれも従った。
  • 当時、帝にはまだ後嗣がなく、萬貴妃が寵を独占していたので、後宮に進める者がなかった。言者は毎度、恩沢を普く及ぼすよう勧めたが、まだ敢えて明言する者はなかった。貴妃が嫉妬深かったからである。ただ李森らの章だけがこれを言ったので、帝は内心不快であった。
  • 李森は再び遷って左給事中となった。戸科都給事中が欠けたとき、吏部が李森の名を挙げたが、詔により外任とされた。部は興化知府を擬したが許されず、そこで懷慶通判として出た。まもなく自ら弾劾して帰り、再び出仕しなかった。