明史卷一百八十 列傳第六十八 邱𢎞

土地の請乞と賑恤の建言

  • 邱𢎞は字を寛叔といい、上杭の人。天順末年の進士で、戸科給事中に任じられ、たびたび時政を陳べた。
  • 成化四年(1468年)春、同官とともに上言した。洪武・永楽年間には畿輔・山東の土地が広く人が少なかったので、詔により民に開墾を許して永く税を課さなかった。近ごろ権勢者が勢いを恃んで、それらを閑田だと指し、事実を曖昧にして下賜を願い出ている。嘉善長公主が文安の諸県の地を求め、西天佛子の扎實巴勒が静海県の地を求めるなど、多いものは数十百頃に及ぶ。百頃を超える土地といえば、古では百家の産である。どうして一人の私情に従って百家の恒産を奪えようか、と。帝はその言を容れ、今後は請乞をすべて許さないと詔して令とした。扎實巴勒が求めた地はついに民に還された。
  • 邱𢎞は再び遷って都給事中に至った。成化六年(1470年)夏、山東・河南が大旱となり、邱𢎞は賑給を請い、あわせて言った。四方が災を告げても、部の臣は先例にこだわり、必ず実地に確かめてから免除する。上が租を免じても下に実恵が及ぶことは稀である。今後は災に遭えば撫按の官が実を調べ次第、免除を与えられたい、と。従われた。
  • 萬貴妃が寵を得、中官の梁芳・陳喜が競って淫巧を進め、奸人の屠宗順の輩が日々奇異な宝石を献じては厚く報われ、国庫を糜すこと百万に上り、それによって官を得た者もあった。都の人は倣って奢侈を競い、僭越に際限がなかった。
  • 邱𢎞は同官とともに疏して屠宗順らの罪を論じ、国庫の金を追還し奢侈の風を厳禁するよう請うた。事が下されると刑部尚書の陸瑜は屠宗順らを法に付し、その資財を没収して饑民を賑わすよう請うた。帝は許さず、ただ僭越奢侈の者は容赦なく罪すると命じたが、結局は禁じきれなかった。
  • 京師が凶作で米が高騰し、四方の遊僧が万を数えたとき、邱𢎞はこれを駆逐して無駄飯を省くよう請い、また太倉の米を出し値を下げて貧民のうち最も窮した者に糶ることを請うた。帝はいずれも従った。
  • さらに、在京の百獣房および清河寺などで飼われている珍禽・野獣は日々魚肉や米菽を与えられているので、放って無駄な費えを省くよう請うた。上聞された。
  • 翌年、琉球に使いする途上で卒した。邱𢎞は毛𢎞とともに言路にあり、いずれも敢言であったので、人は「二𢎞」と称したという。