言路にあっての諫争
- 毛𢎞は字を士廣といい、鄞の人。天順初年の進士に登り、天順六年(1462年)に刑科給事中に任じられた。
- 成化三年(1467年)夏、六科の諸臣とともに上言した。近ごろ塞上に事が多く、まさに陛下が夜も服を着たまま食事も遅らせるべき時である。しかるに退朝の暇にはかなり遊興に耽られ、砲声がしばしば外に聞こえると聞く。禁城にあるべきことではない。まして災変が頻りに起こり、両畿は水旱、川・広は兵乱の後で公私ともに困窮している。どうか遊戯や宴飲の類を省き、金豆・銀豆の賞を停め、日々経筵に臨んで正学を講究されたい。そうすれば上は天の怒りを解き下は人心を慰められる、と。御史の展毓らも同じ趣旨を言い、いずれも嘉納された。
- 帝が学士の商輅の請いに従い、改元後に建言によって罷官された者をすべて登用しようとしたとき、毛𢎞は即位以後の分に限るよう請い、給事中の王徽らの召還を許さなかった。
- 慈懿太后が崩じ、詔により別に葬ろうとしたとき、毛𢎞は魏元らとともに疏して諫めたが許されなかった。翌日、毛𢎞が「これは大事である。我らは死をもって諫めるべきだ」と唱え、大小の臣工を集めて闕に伏して固く争うことを請うた。衆は承諾したが、しりごみする者があった。給事中の張賔が「君らだけは国恩を受けていないのか。なぜ首鼠両端に構えるのか」と叫んだので、そろって文華門で哭き、ついに礼どおりにさせることができた。
- 毛𢎞は科にあって論列することが最も多く、声は朝廷を震わせたので、帝はかなりこれを厭い苦にし、「昨日も毛𢎞、今日も毛𢎞」と言ったことがある。前後の陳言は容れられぬこともあったが、毛𢎞は慷慨として論議し、屈するところがなかった。
- 欽天監正の谷濱が賄賂を受けて除名に当たるところ、贖罪の納入と減秩を命じられ、正一真人の張元吉が罪があって死罪と論ぜられたのに、詔で獄に繋ぐだけとされたとき、毛𢎞らはいずれも固く争ったが、ついに聴かれなかった。
- 三たび遷って都給事中に至り、病を得てにわかに卒した。