明史卷一百七十九 列傳第六十七 鄒智
鄒智(字は汝愚、合州の人、?–1491年)は、木の葉を焼いて灯とするほどの貧しさから学び、成化二十二年の郷試に第一で挙げられた。上京の途上で致仕尚書の王恕を訪ね、賢奸を弁別する上書を志すと語ったという。翌年に進士となって庶吉士に改められ、輔臣への疑任、諫官の萎縮、宦官の専権を論ずる上疏を行い、孝宗の即位後には萬安・劉吉・尹直を名指しで弊の本源と断じた。萬安・尹直は罷免されたが劉吉に恨まれ、劉概の獄に連坐して広東石城所の吏目に謫された。謫地では陳獻章に学び、二十六で客死した。天啓初年に忠介と追諡。
年表(2件)
- 成化二十二年1486年郷試に第一で挙げられ、上京の途上で王恕を訪ねて志を語る
- 𢎞治四年1491年十月、謫地の広東で病を得てにわかに卒す。年二十六
出自と成化年間の上疏
- 鄒智は字を汝愚といい、合州の人。十二歳で文を作ることができた。家が貧しく、木の葉を焼いて灯として夜を継ぐこと三年に及んだ。
- 成化二十二年(1486年)の郷試に第一で挙げられた。当時、帝はいよいよ政に倦み、萬安・劉吉・尹直が政府にあったので、鄒智はこれを憤った。
- 道中、三原を過ぎて致仕尚書の王恕を訪ね、慨然として言った。天下を治めるのは君子を進め小人を退けることにある。今、小人が位にあって四海を毒しているのに、公は田里に打ち捨てられている。私のこの旅は科名のためではない。天子に上書して賢と奸を弁別し、この民を塗炭から救いたいのだ、と。王恕はその言を奇として、笑って答えなかった。
- 翌年、進士に登って庶吉士に改められ、そこで上疏した。
- 疏の趣旨。陛下は輔臣について、事あるごとに必ず諮り、格別の恩数も必ず及ぼされ、任せていると言える。しかし一人を進退し一事を処分するにあたって、往々にして中旨を降し、一、二の小人にひそかにその権柄を握らせておられる。これは任せておきながら疑っておられるということである。
- 陛下がどうして誠を推して人に接することを望まれないことがあろうか。輔臣が身を立てた初めが多く私門から出たので、まず陛下の厭薄を招き、事を議するに当たっては唯々諾々として恐れ入るばかりで、かえって一、二の俗吏が事に当たれるのに及ばない。これが陛下が疑われるゆえんである。しかし臣はこれを行き過ぎだと思う。
- 昔、宋の仁宗は夏竦が詐を懐くと知ってこれを退け、吕夷簡が過ちを改められると知ってこれを容れ、杜衍・韓琦・范仲淹・富弼が任に堪えると知って次を越えて抜擢した。だから北は契丹を拒ぎ西は元昊を臣とすることができた。任せながら疑って天下の事が成るなどとは聞いたことがない。
- どうか陛下は、誰が夏竦で誰が吕夷簡かを察して退け容れ、誰が杜衍・韓琦・范仲淹・富弼かを察して抜擢し、日々ともに治道を論じ、小人がその間に参画できぬようにされたい。そうすれば天の務めは輔けられる。
- また臣は、天下の事は輔臣だけが議することができ、諫官だけが言うことができると聞く。諫官は位は卑くとも輔臣と等しい。しかるに今の諫官は、体躯の魁梧なるを美とし、応対の敏捷なるを賢とし、簿書や刑獄を職務とし、天変を畏れず人の窮乏を恤まない。忠義をもって激励すれば「言いたくないのではない。言えば禍が随う。誰が聴いてくれよう」と言う。ああ、言を尽くして職を果たせぬうえに、過ちを引いて上に帰する。人の心ある者がこんなことをするだろうか。
- どうか浮冗な者を罷免して風節ある臣を広く求め、朝儀の後に糾弾させ、内閣に入って参議させ、あるいは請対、あるいは輪対、あるいは時ならぬ召対を許し、和やかな顔色で接し温かい言葉で導いて、誠を尽くし蘊蓄を出し切らせていただきたい。そうすれば天聴は開ける。
- また臣は、汲黯が朝にあって淮南が謀を止めたと聞く。君子が人の国に益することは大きい。陛下の聡明をもって、君子が任じられると知らぬはずはない。それをわざと抑えられるのは、小人が巧みに讒言して中傷するからにすぎない。
- 今、碩徳なること王恕、忠鯁なること强珍、亮直剛方なること章懋・林俊・張吉のごとき者は、みな一時の人望であり、貶して禁錮し、上天が才を生んだ意に背いてはならない。まことにこの数人を召して要職・近侍の地に置き、それぞれ平生を尽くさせられれば、天心は協う。
- また臣は、高皇帝が閽寺を制して、掃除の役だけを与え政に及ばせなかったと聞く。近ごろは旧章が日々壊れ、邪径が日々開かれ、人主の大権はことごとくその手から出ている。内では宰相として頼り、外では将として頼り、藩方では鎮撫として頼り、伶人や賤工はこれを頼って奇技淫巧を作り、法王・仏子はこれを頼って宮禁を出入りしている。これが高皇帝の許されたことであろうか。
- どうか陛下は宰相を股肱とし、諫官を耳目とし、正人君子を腹心として、深く思い極めて宗社長久の計を定められたい。そうすれば大綱は正される。
- しかしその根本は陛下が理を明らかにされるか否かにある。ひそかに聞くに、侍臣の進講には繰り返し論弁する功がなく、陛下の聴講にもゆったりと心を潤す益がないという。それで理を明らかにして事に応じようとしても、臣は信じない。どうか義理の窮め難きを念い、日月の過ぎ易きを惜しみ、経史に考え身心に験して、年を通じて途切れぬようにしていただきたい。そうすれば聖学は明らかとなり万事は治まる。どうして先の四事の措置が当を得るだけに留まろうか、と。
- 疏が入ったが返答はなかった。
孝宗即位後の上書
- 鄒智は慷慨として気概があった。当時、御史の湯鼐、中書舎人の吉人、進士の李文祥もまた意気を負っており、鄒智は皆と親しく、ともに公卿を品評し人物を評量した。
- まもなく孝宗が位を嗣ぎ、弊政の多くが改められた。鄒智は喜び、その志が行われようとしていると考え、星変を機に改めて上書した。
- 上書の趣旨。明詔に「天下の利弊で興すべく革むべきものは、所在の官員・人等が条を具えて申せ」とあるのを伏し読んだ。これはおそらく陛下が、先日の登極詔書が奸臣に誤られ、言官が風聞や私意で言事することを禁じたため世論が騒がしくなったことをお知りになり、この一条を下して自ら解こうとされたのであろう。
- しかし「朕の身に過ちあり、朝政に欠けあり」と言わずに「利弊は興革すべし」と言い、「諸人が直言して隠すことなきを許す」と言わずに「官員・人等が条を具えて申せ」と言われる。陛下が言を求められる範囲はすでに広くない。
- 今、天下の利を興し弊を革めようとするなら、利弊の本源を求めて興し革めるべきであり、些細なことを列挙して利弊がそこにあるとすべきではない。本源はどこにあるか。閣臣がそれである。少師の萬安は禄を守り寵を恃み、少保の劉吉は下に阿り上を欺き、太子少保の尹直は詐を挟み奸を懐く。世の小人である。陛下がこれを留められれば君徳は必ず成らず朝政は必ず修まらない。これが革むべき弊である。
- 致仕尚書の王恕は忠亮で大事を任せられ、尚書の王竑は剛毅で大奸を鎮められ、都御史の彭韶は方正で大疑を決せられる。世の君子である。陛下がこれを用いられれば君徳は開け明らかとなり朝政は清く粛まる。これが興すべき利である。
- しかし君子が進まず小人が退かないのは、おおむね宦官の権が重いことによるだけである。漢の元帝はかつて蕭望之・周堪を任じたが、ついに弘恭・石顕に制せられた。宋の孝宗はかつて劉俊卿・劉珙を任じたが、ついに陳源・甘昇に隔てられた。李林甫・牛仙客は高力士と相和して唐の政は綱を失い、賈似道・丁大全は董宋臣と表裏をなして宗室は振るわなかった。君子と小人の進退の機は、この輩の盛衰に繋がらなかったことがない。
- どうか陛下は既往に鑑み将来を謹み、天綱を攬って英断を張り、およそ宦官に対する扱いを一切高皇帝を法とされたい。そうすれば君子は進み小人は退き、天下の治は一つから出る。
- 陛下の世に冠たる聡明をもって、刑臣に委任すべきでないことを知られぬはずはない。それでも誤用を免れないのは、おそらく正心の学が講じられていないからである。心が天理から発すれば耳目は聡明となり言動は節に中る。宦官がどうして惑わせようか。人欲から発すれば一身に主がなく万事は綱を失い、隙を突かれて蒙蔽が行われる。神武の資質があっても日々改まり月々変わって、しだいに初めを失う。それで君子を進め小人を退け、天下の利を興し弊を革めようとしても、できようはずがない、と。
- 帝は疏を得てこれを頷いた。ほどなく萬安と尹直は相次いで罷免され斥けられたが、劉吉の任は元のままで、鄒智を骨髄まで恨んだ。
投獄と客死
- 湯鼐が常朝で侍班に当たったとき、鄒智は湯鼐に告げた。祖宗の盛時には御史は侍班して面と向かって政務の得失を陳べ、その場で採否を得られた。その後は退いて疏を具えるだけになった。これが君臣の情意が隔たるゆえんである。君は幸いに維新の日に遇っている。先朝の故事に倣って行ってはどうか、と。
- 王恕が召しに応じて京に至ったとき、鄒智は訪ねて言った。後世の人臣は時に天子に見えることができないので、事はおおむね苟且である。どうか公は官を受ける前に、まず朝見を請い、時政の善からぬものを一つ一つ陳べ、力めて除革を請うてから拝命されたい。それでこそ効がある。先に官を受ければ、もはや天子に見える日はない、と。湯鼐も王恕もその言を用いることができなかった。
- ちょうど劉概の獄が起こり、劉吉はその一党の魏璋に鄒智の名を書き入れさせたので、詔獄に下された。鄒智は自ら三木を受けてわずかに息をつく有様であったが、慷慨として対簿した。「私は経筵が寒暑を理由に講を中断し、午朝が些事で責を塞ぎ、紀綱が廃弛し、風俗が浮薄で、生民が憔悴し、辺備が空虚であるのをひそかに憂え、湯鼐らと行き来して論議した。それは確かにあった。ほかのことは知らない」と。
- 裁く者が劉吉の意を承け、ついに広東石城所の吏目に謫した。この事の顛末は湯鼐伝にある。
- 鄒智が広東に至ると、総督の秦紘が檄を出して召し、書物の編纂に当たらせたので、会城に居った。陳獻章が新会で道を講じていると聞いて赴き教えを受け、これ以来、学はますます純粋になった。
- 𢎞治四年(1491年)十月、病を得てにわかに卒した。年二十六。同年の生である呉廷舉が順徳知県であったので、殮めてその喪を郷里へ帰した。天啓初年、忠介と追諡された。