出自と定山での講学
- 莊㫤は字を孔暘といい、江浦の人。幼くして豪邁で群を抜き、古を好んで博学であった。成化二年(1466年)の進士に挙げられ、庶吉士に改められ、翰林検討に任じられた。
- 編修の章懋、黄仲昭とともに内廷の張灯を疏して諫め、旨に逆らって廷杖二十を受け、桂陽州判官に謫された。まもなく言官の救解により南京行人司副に改められた。
- 三年居って母の喪で去り、続いて父の喪に遭って、哀しみのあまり身を損なった。喪が明けてからは再び出仕せず、定山に居を卜すること二十余年、学者は定山先生と称した。
- 巡撫の王恕がその庵を修繕しようとしたが辞退した。莊㫤は生涯著述を尚ばず、自得するところがあれば詩に表した。
- 推薦の章は十度以上上がり、部の檄もたびたび促したが、いずれも赴かなかった。大学士の邱濬はかねて莊㫤を憎み、人に「天下の士を率いて朝廷に背かせているのは莊㫤だ」と言っていた。
- 𢎞治七年(1494年)、莊㫤を推薦する者があって詔により起用されることになったが、莊㫤は邱濬が国政を執っているので出仕したくないと思いつつ、罪を得ることを恐れて無理に立って都に入った。大学士の徐溥が郎中の邵寳に「定山はもと翰林だから、これに復すべきだ」と言った。邱濬はこれを聞いて「私は定山なる者を知らぬ」と言ったので、再び行人司副とされた。
- まもなく南京吏部郎中に遷ったが、風疾を得て、翌年に退官を乞うた。部の臣は奏上しなかった。さらに翌年、京察のとき尚書の倪岳が老疾を理由に罷免した。二年居って卒した。年六十三。天啓初年、文節と追諡された。