明史卷一百七十九 列傳第六十七 黄仲昭

出自と諫言

  • 黄仲昭は名を潛といい、字で通った。莆田の人。祖父の黄壽生は翰林検討で学行があり、父の黄嘉は束鹿知県で善政で知られた。
  • 黄仲昭は性が端正で慎み深く、十五、六の頃にはすでに正学を志した。成化二年(1466年)の進士に登って庶吉士に改められ、編修に任じられた。
  • 章懋・莊㫤とともに直諫によって杖を受け、湘潭知県に謫されたが、途上で諫官の言により南京大理評事に改められた。
  • 両京の諸司では隷卒をおおむね帰郷させ、その月々の銭を取るのが慣例であったが、黄仲昭と羅倫だけは取らなかった。
  • 御史が子弟を放って賄賂を取らせ、刑部が事を曲げて庇ったのを、黄仲昭は論駁して正した。集団で民の婦女を掠って転売した事件で、刑部が首謀者一人だけを罪に問おうとしたのを、黄仲昭は全員を連座させるよう請うた。
  • 父母の喪に続けて遭い、四年のあいだ喪の席を離れなかった。喪が明けてからは、親の生前に養えなかったことを理由に出仕しなかった。
  • 𢎞治改元(1488年)、御史の姜洪が疏して推薦し、吏部尚書の王恕が担当官に檄を送って赴任を促した。至ったとき、王恕は大門の外まで迎えて、譲り合って堂に上り、向かい合って再拝したので、世は両人ともに高しとした。
  • 江西提学僉事に除せられ、士を正学で教えた。久しくして再び疏して退休を乞い、日々著述に努めた。学者は未軒先生と称した。卒したとき年七十四。
  • 黄仲昭の兄の黄深は御史。黄深の子の黄乾亨は行人で、満剌加に使いして海で没した。黄乾亨の子の黄如金は広西提学副使、黄希雍は蘇州同知。黄仲昭の孫の黄懋は南京戸部侍郎。