出自と鰲山煙火の諫言
- 章懋は字を徳懋といい、蘭谿の人。成化二年(1466年)の会試第一で進士となり、庶吉士に改められ、翌年冬に編修に任じられた。
- 憲宗が元夕に灯を張ろうとして詞臣に詩詞を作って進めよと命じたので、章懋は同官の黄仲昭、検討の莊㫤とともに疏して諫めた。
- 疏の趣旨。このたび臣らに鰲山煙火の詩詞を作れとの諭があったが、臣らはこれが陛下の本意ではなく、両宮の聖母が上におられるので孝養を尽くしその歓心を得ようとされたものと存じる。しかし養いというのは志を養うことにあり、ただ耳目の玩弄物を並べることを養いとしてはならない。
- 今、川東は鎮まらず遼左には憂いが多く、江西・湖広は赤地数千里、万姓は嗷々として口を開いて食を待っている。まさに陛下が朝夕に心を焦がし、両宮の母后とともに天下を憂われるべき時である。翰林の官は論思を職とするのに、鄙俚の言葉をどうして君上に進められようか。
- 宣宗皇帝御製の「翰林箴」を伏し読むに「啓沃の言は唯だ義と仁、堯舜の道は鄒魯をもって陳ぶ」とある。灯を張ることが堯舜の道であろうか。詩詞が仁義の言であろうか。
- もし煙火は些細なことで聖徳を損なうに足りぬというなら、舜はなぜ漆器を作らなかったのか、禹はなぜ旨酒を嗜まなかったのか、漢の文帝はなぜ露台を作らなかったのか。古の帝王が小事を慎み微細に謹み、細行を重んじたのは、欲を放縦にしてはならず、兆しを長じさせてはならないからである。
- どうか煙火を停止し、この見聞を移して耳目を開き、この費用を省いて飢えを賑わし困窮を恤まれたい。そうすれば災祲は消え、太平を致すことができる、と。
- 帝は、元夕の張灯は祖宗の故事であるとして、章懋らのみだりな発言を憎み、あわせて闕下で杖打ち、その官を左遷した。修撰の羅倫が先に言事によって斥けられていたので、当時これを「翰林四諫」と称した。
地方官と致仕、講学
- 章懋は臨武知県に貶されたが、赴任前に給事中の毛𢎞らの救解によって南京大理左評事に改められた。
- 三年余りで福建僉事に遷り、泰寧・沙・尤の賊を平らげ、福安の民に採鉱を許して盗の源を塞ぎ、蕃貨を互いに通商させて商民を潤すことを建議し、政績は甚だ顕著であった。
- 考課を満たして都に入ったとき、年はまだ四十一であったが、しきりに致仕を求めた。吏部尚書の尹旻が強く留めたが承知しなかった。
- 帰ってからは跡を絶って城府に入らず、親に仕える暇はもっぱら読書と講学に費やした。経を執って学ぶ弟子は日に増えたが、貧しくて供応の用意もなく、玄米と菜一品があるだけであった。四方の学者・大夫はその風格を高しとして楓山先生と称した。
- 家居すること二十余年、中外から推薦が相次ぎ、部の檄でたびたび起用されようとしたが、親が老いていることを理由に固く赴かなかった。
- 𢎞治年間、孝宗が群賢を登用したとき、両京の国学には名儒を用いるべきだとの議論があり、北監には謝鐸が起用された。南監の祭酒が欠けると章懋を補することとしたが、章懋はちょうど父の喪に遭って就かなかった。当時、南監は司業が欠けて二十年近くになっており、詔により特に羅欽順をこれに充て、祭酒の席は空けたまま章懋を待った。
- 𢎞治十六年(1503年)、喪が明けても章懋はなお固辞したが許されず、ようやく任に就いた。六館の士は一人残らず師を得たと思った。ある監生は母の病があったが、規定で帰省できず、昼夜泣いていた。章懋は「私はむしろ制に違えて罪を得よう」と言って帰らせた。
- 武宗が立つと、聖学に勤めること、継述を隆んにすること、大婚を謹むこと、詔令を重んずること、天戒を敬うことの五事を陳べた。
- 正徳元年(1506年)に退休を乞い、五度の疏も許されず、さらに病を理由に懇ろに辞し、翌年三月にようやく許された。正徳五年(1510年)に南京太常卿として起用され、翌年また南京礼部右侍郎として起用されたが、いずれも力めて辞して就かなかった。
- 言者がしばしば章懋の徳望を陳べて優遇を請うたので、詔により担当官が季節ごとに見舞うこととなった。世宗が位を嗣ぐと在宅のまま南京礼部尚書に進めて致仕させ、その冬に行人を遣って見舞わせたが、章懋はすでに卒していた。年八十六。太子少保を贈られ、文懿と諡された。
- 章懋の学は先儒の教えを恪守した。文章を作ることを勧める者があると「小技である。私にはその暇がない」と言い、著述を勧める者には「先儒の言は至れり尽くせりだ。その繁を刈り込めばよい」と言った。
- 出仕して五十余年、俸を歴たのはわずかに三考を満たすばかりで、進むに難く退くに易かったので、世はみなこれを高しとした。
- 三子を生んだが、いずれも農を業とさせた。県令が訪ねたとき、諸子は鋤を置いて跪いて迎えたので、人はこれが貴公子であると分からなかった。子が南監に章懋を訪ねたとき、徒歩で行ったところ、道中で巡檢に笞打たれ、後で身分を知って謝罪に来たが、章懋は慰めて帰らせた。
- 晩年、三子と孫一人がみな死に、年八十二にして末子の章接を生んだ。後に廕により国子生となった。
章拯(章懋伝附)
- 従子の章拯は字を以道といい、幼くして章懋に学び、𢎞治十五年(1502年)の進士に登って刑部主事となった。
- 正徳初年、劉瑾に逆らって詔獄に下され、梧州府通判に謫された。劉瑾が誅されると南京兵部郎中に抜擢された。
- 嘉靖年間、累進して工部尚書となった。桂萼が海運を復活させようとして公卿を集めて得失を議したとき、章拯は「海運には先例があるが、風濤は河の百倍である。しかも天津の海口は淤積が多く、古来、海を浚渫したという話は聞かない」と言い、議は沙汰止みとなった。
- 南北の郊祀の議が起こったとき、章拯が不可を唱えたので帝の意に背き、まもなく郊壇の祭器の供給不足に坐して職を落とされて帰った。久しくして官に復し、致仕して卒した。