明史卷一百七十九 列傳第六十七 羅倫

羅倫(字は彛正、吉安永豐の人、?–1478年)は、貧家に生まれて樵や牧のかたわら学び、成化二年の廷試で万余言の対策を書いて進士第一となった。及第の二か月余り後、大学士李賢の起復(奪情)は綱常と風化を損なうとして長大な上疏を行い、福建市舶司副提舉に謫された。李賢の死後、商輅の言により原職に復したが、二年で病を理由に帰り、以後は金牛山に室を築いて著述と講学に専心した。剛正で富貴名利に淡白、郷約を唱えて郷里を教化した。学者は一峰先生と称し、嘉靖初年に文毅と諡された。附伝に、面議の復活を説いた御史の涂棐がある。

年表(3件)

篇首の立伝者一覧

  • 羅倫(附・涂棐)
  • 章懋(附・従子の章拯)
  • 黄仲昭
  • 莊㫤
  • 鄒智
  • 舒芬(附・崔桐、馬汝驥)

出自と学問

  • 羅倫は字を彛正といい、吉安永豐の人。五歳のとき母について園に入り、果実が落ちて皆が争って取るなか、羅倫だけは与えられてから受け取った。
  • 家が貧しく、樵や牧をしながらも書を挟んで誦することをやめなかった。諸生となってからは聖賢の学に志し、「挙業が人を壊すのではない。人が自ら壊れるのだ」と言った。
  • 知府の張瑄がその貧しさを憐れんで粟を贈ったが、辞退して受けなかった。父母の喪に居っては、大祥を過ぎてからようやく塩や乳製品を口にした。
  • 成化二年(1466年)の廷試で万余言の対策を書き、時弊を直に斥けて名は都下に轟き、進士第一に抜擢され、翰林修撰に任じられた。

李賢の起復に反対する上疏

  • 二か月余り後、大学士の李賢が喪に奔って服喪を終え、詔を奉じて還朝することになった。羅倫は李賢を訪ねて思いとどまらせようとしたが聴かれず、そこで上疏した。
  • 疏の趣旨。朝廷が楊溥の先例を援いて大学士の李賢を起復させると聞く。李賢は大臣であり、その起復は綱常と風化に関わる大事であるから、慎重でなければならない。
  • かつて陛下の制策に「朕は夙夜心を尽くし、大綱を正し万目を挙げて、人倫を上に明らかにし風俗を下に厚くしたい」とあった。人倫を明らかにし風俗を厚くするには孝より先んずるものはない。礼に、子に父母の喪があれば君は三年その門で呼ばないとある。子夏が「三年の喪でも金革の事には避けないのが礼か」と問うたのに対し、孔子は「魯公伯禽には事情があってそうしたのだ。今、三年の喪にあってその利に従うのは、私には分からない」と答えた。陛下が李賢を金革の事として起復させるならばそのような事態はなく、大臣だからとして起復させるならば礼に見えぬことである。
  • 君たる者は先王の礼を挙げて臣を教え、臣たる者は先王の礼を守って君に仕えるべきである。昔、宋の仁宗が富弼を起復させようとしたとき、富弼は「先例に従って前代の非を遂げるわけにはいかない。礼経に拠って今日の是を行うべきである」と辞し、仁宗はついにその請いに従った。孝宗が劉珙を起復させようとしたとき、劉珙は「身は喪中にあり、国に門庭の寇もない。金革の名を冒して禄の実を私することはできない」と辞し、孝宗はその情を抑えなかった。この二君は先例をもって臣に強いず、二臣は先例をもって君に迎合しなかった。だから史册はこれを盛事として記し、士大夫は美談として伝えている。ほかでもない、君が臣を孝で教え、臣に君へ移すべき孝があったからである。
  • これより後、礼義は絶えた。王黼・史嵩之・陳宜中・賈似道の輩はみな先例を援いて起復したが、天下は壊乱し社稷は傾き、当時に禍を流して後代の譏りを残した。ほかでもない、君が臣を孝で教えず、臣に君へ移すべき孝がなかったからである。
  • 陛下がどうしても李賢に天下の事を任せたいのであれば、李賢の身は留められなくとも、その口は用いられる。温詔を降して劉珙のように言事を許し、李賢が天下の事について知れば必ず言い、言えば必ず尽くし、陛下は李賢の言を聞けば必ず行い、行えば必ず力めるようにすれば、李賢は起復せずとも起復したのと同じである。もし知って言い尽くさず、言って力行しないのであれば、李賢が起復しても益はない。
  • また陛下は、廟堂に賢臣がなく百官に賢士がないなどとお思いになるな。君は盂、臣は水である。水が方形にも円形にもなるのは盂が決めることであり、臣が直となるか佞となるかは君が招くことである。陛下が退朝の暇に、正直で博学の臣に親しんで聖学と君徳の要を講じ、政事の得失を問い、民生の利病を察し、人才の賢否を訪ね、古今の盛衰を考え、独りよがりの偏見を捨てて耳に逆らう苦言を容れられれば、多くの賢者と策が朝廷に集まる。どうして先王の礼経に背き大臣の名節を損なってから天下が治まるということがあろうか。
  • 近年、朝廷は奪情を常典とし、縉紳は起復を美名としている。稲を食い錦を着る徒が廟堂に踵を接しているが、この者たちが天下の重事にどう関わるというのか。しかも婦が舅姑のためにも喪は三年、孫が祖父母のためにも齊衰を服す。夫に奪情があっても妻には関わりなく、父に奪情があっても子には関わりない。今、住まいは元のまま、妻子も帰さずにおいて、天下に向かって「本来は喪を終えたかったが朝命が許さなかった」と言う。三尺の童子でさえこれを信じまい。
  • 人の父たる者が子の報いに望むのはこんなことであろうか。人の子たる者が親に報いる心はこれで忍びられようか。己を枉げる者は人を直くできず、親を忘れる者は君に忠たりえない。陛下はそのような人物のどこを取って起復させるのか。
  • 今、大臣が起復すれば群臣はこれを非とせず、むしろ賛成する。群臣が起復すれば大臣はこれを非とせず、むしろ後押しする。上下が習俗を成して同じ流れに混じり、天下の人を父無き境地へ導いている。臣は聖朝の朝廷において、綱常の壊れと風俗の弊がここまで極まるのを忍びない。
  • どうか陛下は聖断をもって、李賢が家に帰って服喪することを許し、その他すでに起復した者にも喪に奔らせ、まだ起復していない者にはすべて喪を終えさせていただきたい。仮に金革の変が起これば、墨衰の権道に従って、外では軍事に当たり内では心喪を尽くさせればよい。朝廷が正しければ天下は一つになり、大臣が法を守れば群臣は倣う。人倫はこれによって明らかになり、風俗はこれによって厚くなる、と。

貶謫とその後

  • 疏が入ると、福建市舶司副提舉に謫された。御史の陳選が救いの疏を上げたが返答がなく、御史の楊琅が重ねて救おうとしたが、帝は厳しく叱責した。
  • 尚書の王翺が、文彦博が唐介を救った故事を引いて李賢をそれとなく諭したが、李賢は「潞公は恩を売って怨みを朝廷に帰した。私はそれに倣うわけにはいかない」と言った。
  • まもなく李賢が卒した。翌年、学士の商輅の言により召還されて原職に復し、南京に移された。二年で病を理由に帰り、そのまま再び出仕しなかった。
  • 羅倫は剛正な人柄で、自らを律することに厳しく、義のあるところは毅然として必ず行い、富貴名利には淡白であった。郷里では郷約を唱えて行い、誰も従って犯そうとしなかった。
  • 衣食は粗末で、人が衣を贈ってきても、道端の行き倒れを見れば脱いで掛けてやった。朝、客を留めて飲むとき、妻子が隣家に粟を借りて昼になってようやく炊くという有様でも意に介さなかった。
  • 人跡の至らぬ金牛山に室を築いて著述し、四方から学びに来る者が甚だ多かった。
  • 成化十四年(1478年)に卒した。年四十八。嘉靖初年、御史の唐龍の請いにより左春坊諭徳を追贈され、文毅と諡された。学者は一峰先生と称した。

涂棐(羅倫伝附)

  • 羅倫が提舉であったとき、豊城の御史・涂棐が福建を巡按していた。司礼中官の黄賜は延平の人で、涂棐に面会を求めたが涂棐は応じなかった。泉州知府の李宗學が賄賂を受けたことで涂棐に取り調べられ、涂棐を訐った。涂棐は自ら弁明したが、黄賜が中から李宗學の奏を後押しし、涂棐と李宗學はともに徴された。
  • 供述が羅倫に及び、あわせて逮えられるところであったが、鎮撫司の某が「羅先生をこんな目に遭わせられようか」と言い、その日のうちに取り調べを終えて上申したので、羅倫は免れた。涂棐もまた官に復した。
  • 涂棐は天順四年(1460年)の進士。成化年間にこう言った。祖宗の朝では政事は必ず大臣と面議した。先帝が幼少で裁決できなかったころ、国政を執る者が手落ちを恐れて簡便な言い回しを用いて宣布に便としたので、朝に臨んで奏事し旨を諭すたびに「担当官にこれを知らせよ」と言うようになった。これは一時の権宜であって定制として踏襲すべきものではない。まして批答には多く中官が関与し、内閣が加わらないこともあるのは、とりわけ祖制に背く。面議を復して隠蔽壅塞の弊を杜がれたい、と。憲宗は用いることができなかった。広東副使で終わった。