明史卷一百七十八 列傳第六十六 韓雍

韓雍(字は永熙、長洲の人)は、正統七年の進士。御史として冤獄を晴らし貪吏を退けて才略を知られ、三十歳そこそこで江西巡撫となった。成化元年の大藤峡の役では、賊を分けて討つ策を退けて全軍を大藤峡へ集中させる方略を主張し、修仁・荔浦を先に収めたうえで峡の諸巣を陥し、侯大狗ら七百八十人を生け捕った。峡に横たわる大藤を斧で断って断藤峡と改名したと伝えられる。以後、両広総督として辺境を鎮めたが、鎮守中官の黄沁らの讒訴により致仕。五年後に五十七で卒し、正徳年間に襄毅と諡された。

年表(9件)

出自と御史時代

  • 韓雍は字を永熙といい、長洲の人。正統七年(1442年)の進士で、御史に任じられた。気概があって果断、才略で知られた。
  • 南畿で囚を録したとき、碭山の教諭某が膳夫を笞打ち、膳夫が逃げ隠れたところ、その父が「教諭が息子を殺した」と訴え、他人の死体を支解して証拠とした。教諭は誣いられて自白していたが、韓雍は跡を追って膳夫を見つけ出し、冤を晴らした。
  • 河道の巡視に出、次いで江西を巡按して貪墨の吏五十七人を罷免した。廬陵・太和に盗が起こると捕えて誅した。
  • 正統十三年(1448年)冬、処州の賊・葉宗留が福建から江西へ転じて侵し、官軍は利あらず、都督僉事の陳榮と指揮の劉眞が伏兵に遭って死んだ。詔により韓雍と鎮守侍郎の楊寧に軍民を督して協力して守らせた。
  • 福建巡按御史の汪澄が隣境に牒を送って賊の鄧茂七を会討しようとしたが、まもなく賊が降伏を申し出たとして兵を止めた。韓雍は「賊が本当に降るなら、それから退いても遅くない」と言って進んだ。果たして賊は再び叛き、汪澄は罪を得て死んだ。人々はこれによって韓雍の識見に服した。

江西巡撫と天順年間の浮沈

  • 景泰二年(1451年)、広東副使に抜擢された。大学士の陳循の推薦で右僉都御史となり、楊寧に代わって江西を巡撫した。
  • 飢饉の年に秋糧の免除を奏請し、寧王の不法を弾劾して王府の官はみな罪を得た。当時、韓雍はまだ三十歳になったばかりであったが、めざましい才望があり、その立案・処置はいずれも後の手本とされた。
  • 天順初年、天下の巡撫官が廃止され、山西副使に改められた。寧王が以前の恨みから、みだりに肩輿に乗ったことなどを弾劾したので、下獄して官を奪われた。
  • 大理少卿として起用され、まもなく右僉都御史に復して㓂深を佐けて都察院の事を処理した。石亨が誅された後、錦衣指揮の劉敬が石亨の直房で飯を食べたことに坐して朋党律により死罪とされた。韓雍は「律が朋党を重く罰するのは、阿り比んで朝政を乱すことを言うのである。一度の食事をこれに当てるのが律の意であろうか。しかも石亨の盛んな時には大臣が朝夕その門に趨ったのに、彼らは坐せられず劉敬だけが坐せられるのはなぜか」と言い、㓂深は感服して劉敬を出した。
  • 母の喪に服し、起復して天順四年(1460年)に宣府・大同を巡撫した。天順七年(1463年)、議事のため入覲したとき、帝はその容貌を壮として留め、兵部右侍郎とした。
  • 憲宗が即位すると、学士の錢溥の件に坐して累りに貶され、浙江左参政となった。

大藤峡の役

  • 広西の猺・獞が流れて広東を掠め、郡邑はほとんど残らず破られた。成化元年(1465年)正月、大いに兵を発し、都督の趙輔を総兵官とし、太監の盧永・陳瑄にその軍を監させた。兵部尚書の王竑が「韓雍の才気は無双、賊を平らげるのは韓雍をおいて外にない」と言ったので、韓雍を左僉都御史に改めて軍務を賛理させた。
  • 韓雍は南京へ馳せ、諸将を集めて方略を議した。これより先、編修の邱濬が大学士の李賢に上書して、広東にいる賊は駆逐し、広西にいる賊は困らせるべきである、大藤峡に兵を宿らせてその出入りを扼し、その禾稼を踏み荒らせば一、二年で賊は尽きる、と言っていた。李賢はこれを善しとして朝廷に献じ、詔により諸将に示された。諸将はその説を主張し、遊撃将軍の和勇に番騎を率いて広東へ向かわせ、大軍は直ちに広西へ向かって兵を分け撲滅せよと請うた。
  • 韓雍は言った。賊は既に数千里に蔓延しており、行く先々で戦っては自ら疲弊するだけである。全軍で直ちに大藤峡を衝くべきだ。そうすれば南は髙・肇・雷・廉を援け、東は南・韶に応じ、西は栁・慶を取り、北は陽峒の諸路を断って、首尾相応ずる。その腹心を攻めて巣穴が傾けば、残りは刃を迎えて解ける。これを図らずに兵を四方に分ければ、賊はますます奔突し郡邑はますます残破する。いわゆる火を救うのに吹きつけるようなものだ、と。衆はもっともとし、趙輔も韓雍の才が賊を処理するに足ると知って、軍謀はすべて韓雍に一任した。
  • 韓雍らは道を倍して全州へ趨き、陽峒の苗が興安を掠めていたのを撃破した。桂林に至って機を失した指揮の李英ら四人を斬って見せしめとした。地図によって諸将と議し、「賊は修仁・荔浦を羽翼としている。まず二県を収めて賊の勢いを孤立させるべきだ」と言い、兵十六万人を督して五道に分け、まず修仁の賊を破り、窮追して力山に至り、千二百余人を捕え、斬首七千三百級。荔浦もまた平定された。
  • 十日で潯州に至り、父老に尋ねると皆「峡は天険で攻められない。計をもって困らせるべきだ」と言った。韓雍は「峡は延広六百余里ある。どうして困らせられるものか。兵を分ければ力は弱まり、師が長引けば財は尽きる。賊はいつになったら平らぐのか。私の計は決まっている」と言った。
  • そのまま峡口へ長駆したところ、儒生や里老数十人が道の左に伏して道案内を願い出た。韓雍は見るなり「賊め、私を欺こうというのか」と罵り、左右に縛って斬らせた。左右は皆驚いたが、縛ってみると袂の中から刃物が出て、問い詰めると果たして賊であった。ことごとく支解して腸胃を抉り出し、林や藪に分けて次々と懸けたので、賊は大いに驚いて「韓公は天神だ」と言った。
  • 韓雍は総兵官の歐信らを五哨として象州・武宣からその北を攻めさせ、自身は趙輔とともに都指揮の白全らを督して八哨とし、桂平・平南からその南を攻め、参将の孫震らを二哨として水路から入らせ、別に兵を分けて諸隘口を守らせた。
  • 賊の頭目・侯大狗らは大いに懼れ、先に重い荷を桂州の横石塘へ移し、南山に柵を立てて滾木・礧石・鏢鎗・毒弩を多く備え、官軍を拒んだ。
  • 十二月一日、韓雍らは諸軍を督して水陸から並び進み、団牌を掲げて山に登り決死の戦いを行い、石門・林峒・沙田・右営の諸巣を続けざまに破って家屋や蓄えを焼いたので、賊は皆潰走した。
  • 木を伐って道を開き、まっすぐ横石塘と九層楼の諸山に至った。賊はまた幾重にも柵を立て、高所に拠って官軍を拒んだ。誘って矢石を射尽くさせ、韓雍は自ら諸軍を督して木や藤を伝って登らせ、別に壮士を間道から先に登らせて山頂を押さえ、礟を撃たせたので、賊は支えきれず大敗した。
  • 前後に賊の砦三百二十四を破り、侯大狗とその一党七百八十人を生け捕り、斬首三千二百余、墜死・溺死した者は数え切れなかった。峡には虹のような大藤が両岸に横たわっていたが、韓雍が斧で断ち、名を断藤峡と改め、石に功を刻んで還った。
  • 別に兵を分けて残党を撃ち、鬱林・陽江・洛容・博白が次々に平定された。帝は大いに喜び、敕を賜って労い、趙輔らを召還して、韓雍を左副都御史に遷し両広の軍務を提督させた。

両広総督と失脚

  • 韓雍が諸軍を解散させて糧秣を省いたところ、残党の侯鄭昂らが虚に乗じて潯州と洛容・北流の二県を陥れた。韓雍は弾劾されて罪を認めたが、帝は宥した。韓雍はさらに兵を発して討った。
  • 当時、諸賊が各地で蜂起し、思恩・潯・賔・栁城がみな擾掠を被り、流れて広東の欽・化二州まで劫掠したが、いずれも即座に破り殄した。
  • 成化四年(1468年)春、韓雍は両広の地が広く政務が多いとして、東西に各々巡撫を置くことを請うた。帝はこれを許し、陳濂に広東、張鵬に広西を撫させ、韓雍は軍事に専念することとなった。まもなく喪により帰った。
  • 翌年、両広の盗が再び起こった。僉事の陶魯は「両広の地勢は入り組んでおり、腕が指を使うように相通じなければならず、切り離せない。先ごろ賊が広西を侵したとき、臣は広東の三司と兵の調発を議したが一月かかっても決しなかった。盗賊は憚るものがない。やはり大臣に総督させるのが便宜である」と言った。僉事の林錦と巡按御史の龔晟も同じ請いをしたので、二巡撫を廃し、韓雍を右都御史として起復させ、総督は元のとおりとした。
  • さらに翌年正月、韓雍は疏して新命を辞し、喪を終えたいと乞うたが許されなかった。任に就くと、参将の張夀、遊撃の馮昇らを遣って道を分けて賊を討ち、忻州八砦の蛮および州県を掠める諸山の猺・獞をことごとく破った。蛮民はもとより韓雍の威を懼れており、寇盗はしだいに息んだ。
  • 成化九年(1473年)、栁・潯の諸蛮が再び叛き、参将の楊広らが九百人を斬獲した。さらに進もうとしたところ賊が懐集県を破ったので、兵部は韓雍の奏報が事実と違うと弾劾した。広西鎮守中官の黄沁はかねて韓雍が自分を抑えることを恨んでおり、これに乗じて韓雍を訐り、貪欲・縦酒・濫賞・妄費であると言った。帝は給事中の張謙らを遣って調べさせたが、広西布政使の何宜と副使の張斆は韓雍が日頃自分たちを軽んじると恨んでおり、ともにその罪を醸成した。張謙は帰って「事実は虚実半ばする」と奏し、ついに致仕を命じられて去った。

人となりと死

  • 韓雍は洞達で闊達、信義を重んじた。江西を巡撫したとき、文天祥と謝枋得に諡を追贈することを請い、詔により文天祥に忠烈、謝枋得に文節の諡が与えられた。
  • 雄略があって決断に善く、動けば機に中った。戦に臨んでは自ら矢石を冒し、目を瞬かせなかった。自らを持することは尊厳で、三司はみな長跪して事を白し、軍門には銅鼓数十を設けて儀節は詳密であった。裨将以下は縄と柙で縛り、容赦しなかった。両地の鎮守宦官はもとより驕恣であったが、息を殺してほしいままにできなかった。
  • 悪を憎むこと厳しかったが、内心では孤高に構えず、財帛を振る舞って惜しまなかった。それゆえ令行禁止で民は安んじたが、謗議もまた起こりやすく、中官に讒せられた。世論は皆これを不平とした。両広の人は韓雍の功を思い、その去るのをことに惜しみ、祠を立てて祀った。
  • 家に居ること五年で卒した。年五十七。正徳年間に襄毅と諡された。
  • はじめ軍功により子一人に錦衣百戸を与えられたが、韓雍はこれを弟の韓睦に授けた。このとき改めて子一人を国子生とした。