明史卷一百七十八 列傳第六十六 項忠
項忠(字は藎臣、嘉興の人、?–1502年)は、正統七年の進士。土木の変で衛拉特に捕らわれながら馬を奪って脱出し、裸足で七昼夜歩いて宣府に生還した逸話で知られる。陝西巡撫として龍首渠・鄭白渠を開いて灌漑を興し、成化四年には固原石城に拠った満俊(満四)の乱を、増兵を退けて手持ちの兵で平定した。次いで荊襄の李原の乱を討ち、百万に及ぶ流民を招撫したが、その処置の苛烈さは非難も招いた。兵部尚書として汪直の西厰を弾劾したため報復を受けて庶民に落とされ、汪直の失脚後に官に復して致仕。諡は襄毅。
篇首の立伝者一覧
- 項忠
- 韓雍
- 余子俊(附・阮勤)
- 朱英
- 秦紘
出自と初任
- 項忠は字を藎臣といい、嘉興の人。正統七年(1442年)の進士で、刑部主事に任じられ、員外郎に進んだ。
- 英宗に従って衛拉特に捕らわれたが、馬の飼育を命じられた隙に馬二頭を奪って南へ逃げ、馬が疲れると乗り捨てて裸足で七昼夜歩き、宣府にたどり着いた。
- 景泰年間、郎中から広東副使に移った。髙州を巡行中、賊が男女数百人を連れて村落を略奪しているとの諜報が入ったが、項忠は「賊が家族連れで動く道理はない、掠われた良民に違いない」と判断し、諸将にみだりに殺すなと戒めた。捕虜を尋問したところ果たしてその通りで、全員を釈放した。
- 瀧水の猺の征討に従軍して功があり、俸を一秩加増された。
陝西巡撫としての治績
- 天順初年、陝西按察使を歴任した。母の喪で帰郷しようとすると、管内の民が朝廷に留任を願い出て、詔により喪に服したまま起用された。
- 当時の陝西は連年の災害で被害が続いており、項忠は倉を開いて賑給し、あわせて軽罪の者に米を納めさせる措置を請うたので、民はこれによって救われた。
- 天順七年(1463年)、大理卿として召還されると、民はまた前のように留任を願い出たので、右副都御史に改めてその地の巡撫とした。
- 洮岷の羌が叛いたとき、項忠は上疏して「羌の狙いは略奪にある。皆殺しにすれば仁を損ない、あわてて撫すれば威が立たない。臣に便宜行事を許されたい」と願い、許された。そこで兵を出して険要を押さえ、進撃するとの声を上げたところ、一党はことごとく降った。
- 西安は水が塩気を帯びて飲めなかったので、龍首渠と皁河を開いて水を城内に引き入れた。また鄭・白の二渠を浚え、涇陽・三原・醴泉・髙陵・臨潼の五県の田七万余頃を灌漑したので、民は祠を建てて祀った。
辺務についての上言
- 陝西はたびたび兵事に苦しんだ。成化元年(1465年)、項忠は上言した。三辺の大将が敵に遭って逗留するのは、才が乏しく臆病なだけでなく、権限が軽いことにも因る。兵卒が敵を恐れて将を恐れないので戦功が挙がらない。軍法をもって処断することを許すべきである、と。
- あわせて言う。朝廷が将才を挙げよと命じてから一年以上経つのに一人も応じる者がない。陝西は風土が強壮で古来名将が多い土地であり、人物がいないはずはないが、策問に答えられぬという一点で締め出されているだけである。今の天下の学校の生徒でさえ策に善く答えられる者は百に一、二である。それを武人に求めてどうするのか、と。帝はその言を善しとしたが、担当官が旧例にこだわって用いなかった。
- 瑪拉噶が延綏を侵したので、詔により彰武伯楊信とともに防がせたが功はなかった。翌年、楊信が河套の大掃討を建議し、項忠に軍務提督を命じる敕が下った。項忠が延綏へ向かう途中で敵は再び開城を落として静寧・隆徳など六州県に深入りし、大掠して去った。兵部は項忠を弾劾したが、帝はとくに赦した。河套掃討の軍も出されずに終わった。
- さらに翌年、召されて都察院の事を処理した。
満俊(満四)の乱の平定(成化四年)
- 成化四年(1468年)、満俊が叛いた。満俊は満四ともいい、その祖の巴勒丹が明初に部衆を率いて帰順して以来、代々千戸として牧畜で一方の長となり、旧俗のままで賦役を課されなかった。その地は開城県の固原にあり、辺境に接していた。
- 満俊は荒々しく凶盗を匿い、辺外へ出て掠奪していた。訴訟が満俊に及び、役人が逃亡者を追ってその家に至り多くを要求したため、満俊は怒って衆を煽り乱を起こした。守臣が満俊の甥の指揮・璹を捕縛に遣ると、満俊はその従者を殺し、璹を捕えて叛き、石城に拠った。
- 石城は唐の吐番の石堡城で、険固なこと数万の兵でなければ攻略できぬと称された地である。山上に城砦があり四面は切り立った壁、中に五つの石井を鑿って水を貯え、登り口はただ一筋の細径だけであった。
- 満俊は自ら招賢王と称し、衆は四千に達した。都指揮の邢端らが防いだが敗れ、二か月足らずで衆は二万に膨れ、関中は震動した。
- そこで項忠に軍務総督を命じ、監督軍務太監の劉祥、総兵官都督の劉玉とともに京営および陝西四鎮の兵を率いて討たせた。軍が出発する前に巡撫の陳价らが先に三万の兵で討ったがまた大敗し、賊は官軍の武具を奪って勢いを増した。
- 朝議は増兵を望んだが、項忠は京軍が脆弱で頼りにならぬこと、また大将を新たに遣れば指揮権が乱れることを憂えて上言した。臣らが調えた三万三千余人で賊を滅ぼすに足りる。今は秋も深く草も枯れており、他軍を調発すれば往復に時を要して賊は遠くへ逃げてしまう。辺兵は長く留められず、増兵は得策でない、と。大学士の彭時・商輅がその議を支持し、京軍は派遣されずに済んだ。
- 項忠は巡撫都御史の馬文升と軍を七道に分けて石城の下に至り、戦って多くを斬獲した。伏羌伯の毛忠が勝ちに乗じて西北の山を奪い、あと少しで攻め落とすというところで流れ矢に中って死に、劉玉も包囲された。諸軍が退こうとすると、項忠は千戸一人を斬って見せしめとし、衆は力戦して劉玉を脱出させた。そのうえで包囲して困らせた。
- ちょうど台斗の分野に彗星が現れ、朝廷では占いが秦の分野に当たり出師に不利だとの声が多かったが、項忠は「李晟が朱泚を討ったときも熒惑が歳星を守った。何の障りがあるか」と言った。
- 日々兵を出して城下に迫り、飼葉を焼き水汲みの道を断ったので、賊は窮して降ろうとし、項忠と馬文升の面会を求めた。項忠は劉玉とともに単騎で赴き、馬文升も数十騎を従えて至って、満俊と璹を呼び速やかに降れと諭した。賊が遠くから拝礼するなか、項忠はまっすぐ進み出て璹を挟み取って帰った。満俊は気勢を挫かれながらも猶予して出て来なかった。
- 項忠は木を縛って橋を架け、人に土嚢を負わせて濠を埋め、銅礟で撃たせたので死者はさらに増えた。賊が頼みとする愛将の楊呼哩が夜に水汲みに出たところを捕えると、項忠はその死を免じ、賊を購う懸賞の額を示して金を見せ、さらに金の帯鈎を賜って帰らせ、満俊を誘い出させた。伏兵を置いて満俊を捕え、急襲して石城を落とし、残党をことごとく捕えて城を毀ち、石を鑿って功を記した。
- 固原の西北・西安の廃城に一衛を増設し、兵を留めて守らせて還った。
- 当初、石城が落ちない間、寒気が甚だしく士卒は苦しんだ。項忠は賊が凍った河を渡って河套の敵と合流することを憂え、日夜攻具を整え、自ら矢石をものともせず、大小三百余戦を交えた。彭時と商輅は項忠が賊を処理できると見て中央から掣肘しなかったので、ついに賊を殄滅できた。
- 功により右都御史に進み、林聰とともに都察院の事を掌った。
荊襄の流民と李原の乱の平定
- 白圭が劉通を平定した後も、荊襄一帯の流民の屯結は元のままであった。劉通の一党の李鬍子、名は原という者が平王を僭称し、小王洪・王彪らとともに南漳・房・内郷・渭南の諸県を掠め、賊に付いた流民は百万に達した。
- 成化六年(1470年)冬、詔により項忠に軍務総督を命じ、湖広総兵官の李震とともに討たせた。項忠は永順・保靖の土兵の調発を奏請し、まず軍を分けて要害に配し、旗幟や鉦鼓を多く設けたうえで、人を山に入れて流民を諭させたところ、帰順した者は四十余万、王彪も捕えられた。
- 当時、白圭が兵部にあり、錦衣百戸の呉綬を派して参将の王信の軍を賛けさせたが、呉綬は功を横取りしようとして果たさず、賊が瓦解すると流言を放った。白圭はこれを信じて土兵の調発を止めさせた。項忠は疏を上げて争い、あわせて呉綬の罪を弾劾した。帝は呉綬を召還し、土兵の調発は元のとおり認めた。
- 合計二十五万を八道に分けて迫り、帰順した流民はさらに数万に上った。賊が山砦に潜伏して隙を伺い出て掠めたので、項忠は副使の余洵と都指揮の李振に撃たせた。竹山で遭遇し、渓流の増水に乗じて渡河の半ばを截ち撃ち、李原・小王洪らを捕え、賊の多くは溺死した。
- 項忠は軍を竹山に移して残党を捕え、さらに流民五十万を招いた。斬首六百四十、俘虜八百余、家口三万余人。一戸につき丁一人を選んで湖広の辺衛に戍らせ、残りは本籍に帰らせて田を給した。善後の十事を上申し、すべて許されて実行された。
- ただ項忠が流民追放を令したとき、担当の役人が一律に駆り立て、進まぬ者はその場で殺した。洪武年間から現地に籍を置いていた民までも送還の中に入れられ、戍地へ送られる者は舟行で疫病により多く死んだ。
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給事中の梁璟は星変を機とする求言に応じて、項忠がみだりに殺したことを弾劾した。白圭もまた、既に生業を成した流民は現在地で籍に著けるべきだと言い、あわせて項忠の上げた功次に食い違いがあると論駁した。帝はいずれも聴かず、項忠を左都御史に進め、子の綬に錦衣千戸の廕を与え、諸将にもそれぞれ功を録した。
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項忠は上疏して弁明した。前後に招撫して復業させた流民は九十三万余人、深山へ逃げた賊党をさらに諭して解散帰順させた者は五十万人、捕えた百人はみな首謀者ばかりである。それを皆良家の子だと言うなら、これまでたびたび「猖獗で防ぎ難い」と奏していたのは誰のことか。賊党の罪は本来死に当たるが、濫りに誅するに忍びないからこそ丁壮を謫して戍らせたのである。長く籍を置いた者の中にも、四十余里の山を占め無頼千人を集めて争闘・劫殺する者がある。こういう者を「久しく居るのだから」と送らずに済ませてよいのか。臣が榜を掲げて「既に数千人を殺した」と賊に告げたのは虚勢で脅したので、事実ではない。そもそも白圭はかつて自らこの任に当たった者であり、今日の事も白圭の残した後始末である。以前は中外の議者が荊襄の患はいつ鎮まるのかと言っていたのに、幸いに平らいだ今になって流言が沸き、臣が口実にされている。昔、馬援は薏苡で謗りを受け、鄧艾は檻車で徴されて功は録されず身も保てなかった。臣は聖明の世に遇う幸いを得た。骸骨を賜り、臣を馬援・鄧艾の後継にさせないでいただきたい、と。帝は温詔をもって答えた。
西厰との対立と晩年
- 成化八年(1472年)、召還されて李賔とともに都察院の事を掌った。二年後に刑部尚書を拝し、まもなく白圭に代わって兵部尚書となった。
- 汪直が西厰を開いて恣に振る舞い、項忠はしばしば侮りを受けて堪えられなかった。大学士の商輅らが汪直を弾劾したとき、項忠も九卿を率いて弾劾した。奏は留め置かれたが、西厰は廃止された。汪直はこれを深く恨んだ。
- ほどなく西厰が再設されると、汪直は呉綬を腹心とした。呉綬は以前の恨みから項忠をいよいよ厳しく伺った。項忠は身の危うさを覚えて病の療養のため帰郷を願ったが、まだ発たぬうちに呉綬が偵事の者をけしかけて項忠の罪を誣告させた。給事中の郭鏜、御史の馮貫らも重ねて弾劾し、事は子の項経、太監の黄賜、興寧伯の李震、彰武伯の楊信らに及んだ。
- 詔により法司が錦衣衛とともに廷鞫した。項忠は抗弁して少しも屈しなかったが、汪直の意から出たことを衆が知っていたので、弁護する者はなかった。ついに庶民に落とされ、黄賜・李震らも罪を得た。
- 汪直が失脚すると官に復して致仕し、家居すること二十六年、𢎞治十五年(1502年)に卒した。年八十二。太子太保を贈られ、襄毅と諡された。
- 項忠は倜儻として大略に富み、軍務に練達し、剛直で阿らず、政事に敏かったので、赴任した先々で名を成した。
- 子は項経。項経の子は項錫、項錫の子は項治元で、いずれも進士に挙げられた。項経は江西参政、項錫は南京光禄寺卿、項治元は員外郎。