明史卷一百七十八 列傳第六十六 余子俊

余子俊(字は士英、青神の人)は、景泰二年の進士。西安知府時代から廉潔と幹才で知られ、成化六年に延綏を巡撫してから明代辺防史上最大の土木事業に着手した。河套征討の費用を細かく計算して辺牆築造の利を説き、東は清水営から西は花馬池まで千七百七十里の牆と塹、城堡・墩台を軍四万人・三か月足らずで築き上げ、鎮の治所を榆林へ移して重鎮とした。のち兵部尚書・戸部尚書を歴任し、宣大でも同様の築造を進めたが費用の過大を責められて一度失脚、再び召されて弘治初年に辺防七事を献じ、在職のまま卒した。諡は肅敏。

年表(11件)
  • 景泰二年1451年進士に挙げられ、戸部主事に任じられる
  • 成化六年1470年左布政使に転じ、まもなく右副都御史として延綏を巡撫する
  • 成化八年1472年秋、河套征討の費えを計算して辺牆と堡の築造を請い、勅許を得る
  • 成化十年1474年閏六月、清水営から花馬池に至る千七百七十里の辺牆の完成を上申する
  • 成化十二年1476年十二月、陝西巡撫に移り、渠を開いて水を渭に導き「余公渠」と呼ばれる
  • 成化十三年1477年召されて兵部尚書となり、条例十事と軍功の賞格を定める
  • 成化十八年1482年侵入した敵が辺牆と塹に阻まれて大敗し、辺人が余子俊の功を思う
  • 成化二十年1484年左副都御史を兼ね、大同・宣府の軍務を総督するよう命じられる
  • 成化二十二年1486年二月、費用の過大を責められ太子太保を落とされて致仕する
  • 𢎞治元年1488年十事を陳べ、さらに辺防七事を上げて多くが実行される
  • 景泰五年1454年附伝の阮勤が進士に挙げられ、のち陝西を巡撫して墩台を築く

出自と地方官時代

  • 余子俊は字を士英といい、青神の人。父の余祥は戸部郎中。
  • 景泰二年(1451年)の進士に挙げられ、戸部主事に任じられ、員外郎に進んだ。部にあること十年、廉潔と幹才で知られた。
  • 西安知府として出た。飢饉の年に倉の米十万石を出して貸し与え、返済の段取りを整えたので、官は損なわれず民は救われた。
  • 成化初年、担当官が治績を表彰すべき知府十人を挙げたが、余子俊はその筆頭であった。林聰の推薦で陝西右参政となり、一年余りで右布政使に抜擢された。成化六年(1470年)に左布政使に転じ、浙江へ移ったが半年ばかりで右副都御史を拝し、延綏を巡撫した。

延綏の辺牆築造

  • これより先、巡撫の王銳が沿辺に牆を築き堡を建てて久遠の計とすることを請うたが、工事が始まらぬうちに中止された。
  • 余子俊は上疏して言った。三辺のうち延・慶だけは地が平坦で騎馬の突入に都合がよく、敵はたびたび侵入して辺民を捕え道案内とし、河套に入り込んで屯牧している。こうなると敵が内におり、我が外に屯していることになる。急ぎ沿辺に牆を築き堡を置くべきである。しかも今の旧界石のある所は高山や険しい崖が多く、山形に依り地勢に随って、削り、積み、あるいは塹を掘って連ねれば辺牆を成せる。それが得策である、と。
  • 尚書の白圭は陝西の民が困窮しているとして役の延期を奏した。その後、敵が孤山堡に入りさらに榆林を侵したので、余子俊は前後して朱永・許寧とともにこれを撃退した。
  • 当時、敵は河套に拠り、毎年大軍を発して征討したが結局功はなかった。成化八年(1472年)秋、余子俊は再び言った。今、河套征討のため延綏に駐屯する士馬は八万で、飼葉は内地の煩いとなっている。この冬に敵が北へ去らなければ、さらに来年の軍資を備えねばならない。仮に今年の数で計算すれば、米豆に銀九十四万、草に六十万を要し、一人あたり米豆六斗・草四束を運ぶとして延べ四百七万人、その路用は八百二十五万に上る。公私の煩擾がここに至って、どうして計を改めずにいられようか、と。あわせて、以前に請うた築牆・建堡を、詔にあるとおり事が鎮まってから実行すること、来年の春夏、敵の馬が疲れる時期に陝西の運糧民五万を役し、食を給して工を興し、二か月で終える計画を請うた。白圭はなお前議に固執して阻んだが、帝は余子俊の言を是として速やかに実行を命じた。
  • 余子俊は先に軍功で左副都御史に進み、翌年また紅鹽池の巣を衝いた功で右都御史に進んだ。敵は巣を衝かれたため遠くへ移り、河套内に居ることができなくなって、辺患はやや息んだ。
  • 余子俊は一意工事に取りかかった。東は清水営に起こり西は花馬池に至る延長千七百七十里、崖を鑿ち牆を築き、その下に塹を掘って途切れなく連ね、二、三里ごとに敵台・崖砦を置いて巡警に備えた。また崖砦の空いた所に短牆を築き、横一・斜二を箕の形に組んで、敵を望みつつ射を避けられるようにした。築いたのは城堡十一、辺墩十五、小墩七十八、崖砦八百十九。軍四万人を役して三か月足らずで完成した。牆の内側の地はことごとく分けて屯墾し、年に糧六万石余を得た。
  • 成化十年(1474年)閏六月、余子俊はその顛末を上申し、母が老いていることを理由に帰郷を乞うたが、慰留されて許されなかった。
  • もともと延綏鎮の治所は綏徳州にあり、属県の米脂・呉堡はみなその外にあった。敵が軽騎で入って掠め、鎮兵が気づいて追っても間に合わず、しばしば利を得て去っていた。余子俊が鎮を榆林に移し、衛を増し兵を加え、城を拡げ戍を置き、攻守の器を備え尽くしてからは重鎮となり、敵の掠奪はしだいに稀になって、軍民は安んじて耕牧できるようになった。

陝西巡撫と兵部尚書

  • 成化十二年(1476年)十二月、陝西巡撫に移った。余子俊は西安知府の時、住民が水泉の塩辛さに苦しんでいたので城西の潏河を引き入れる渠を鑿って民を利したが、年を経て水が溢れても排水口がなかった。そこで城の西北に渠を開いて水を漢の故城を経て渭に達するよう流し、公私ともに便利となって「余公渠」と呼ばれた。
  • また涇陽で山を鑿って水を引き、田千余頃を灌漑した。南山の道を通じて漢中に直通させ、旅人の便を図った。学校・官署の崩れたものはすべて新築した。
  • 岷・河・洮の三衛から南方へ戍らされている者一万余人の免除を奏請し、南北の交代戍の者六千余人を入れ替えて本土に戍らせるようにした。岷州の栗林羌が侵したので、余子俊は密かに兵を進めて伏兵を置き、撃退した。
  • 成化十三年(1477年)、召されて兵部尚書となった。条例十事を明らかにするよう奏し、また軍功の賞格を列挙して上げたので、これにより中外に拠るべき基準ができた。
  • 緬甸の酋・卜刺浪が思洪発の貢章の地を奪おうとして、口実を設けて朝廷に願い出た。余子俊が許すべきでないと言ったので、諭して止めさせた。
  • 貴州巡撫の陳儼らが播州の苗が蜂起したとして、湖広・広西・四川の兵五万を調発し貴州の兵と合わせて剿討することを請うた。余子俊は「賊は四川にいるのに貴州が討伐を請うのは功を求めるものだ」と言い、奏してその件を沙汰止みにした。
  • はじめ余子俊は陳鉞が貢夷を騙し討ちにした罪を論じたが、帝は汪直のゆえにこれを宥した。陳鉞は手を尽くして汪直のもとで余子俊を陥れようとしたが、ちょうど母の喪で帰ったので免れた。
  • 余子俊が辺牆を築いたとき、砂土は崩れやすいと疑う者があった。成化十八年(1482年)に敵が侵入し、許寧らがこれを逐うと、敵は牆と塹に阻まれて散り散りになり出られず、大敗を喫した。辺の人々はいよいよ余子俊の功を思った。

宣大の役と晩年

  • 喪が明けて戸部尚書を拝し、まもなく太子太保を加えられた。成化二十年(1484年)、左副都御史を兼ねて大同・宣府の軍務を総督するよう命じられた。その冬に還朝し、翌年正月の星変に際して時弊八事を陳べ、帝は多くを採納した。まもなく再び辺の巡視に出た。
  • はじめ余子俊が宣・大を巡歴したとき、延綏の辺牆の方式を両鎮でも行うことを請うたが、凶作のため中止されていた。今回改めて出るにあたって鋭意これを行おうとし、言った。東は四海治に起こり西は黄河に至る延長千三百余里、旧来の墩は百七十あるので四百四十の墩を増築すべきである。墩の高さも幅も三丈、役夫八万六千を見積もれば数か月で成る、と。詔により翌年四月に着工と決まった。
  • しかし当時は不作が続いて公私ともに疲弊しており、急に大役を興すことを上下ともに難じた。余子俊はまた辺臣に責任を負わせて自らは事に当たらなかったので、これによって謗議が起こった。
  • 冬に至って帰京を請うたが、帝の耳に流言が入り、左都御史に改めて大同を巡撫させた。中官の韋敬が「余子俊は辺の修築にかこつけて多くを費やし掠め取った」と讒し、さらに「私的な恩怨で将帥を替えた」と弾劾した。兵部侍郎の阮勤らが弁明したが、帝は怒って阮勤らを叱責し、給事中・御史も重ねて弾劾した。朝廷では余子俊を失脚させようとする者が多かった。
  • 工部侍郎の杜謙らが調査に赴き、公平に調べて還り、「将帥の入れ替えは阮勤らの言うとおりで、費用にも私はない。ただし銀百五十万、米菽二百三十万を費やし、財を損じ民を煩わせたことは無罪とはいえない」と奏した。そこで太子太保を落とされて致仕した。成化二十二年(1486年)二月のことである。
  • 翌年正月、兵部の尚書が欠けたとき、帝は余子俊に罪がなかったことを悟って再び召して任じ、太子太保を加えた。
  • 孝宗が即位すると先朝の老臣として待遇はいよいよ厚くなった。𢎞治元年(1488年)に十事を陳べ、さらに辺防七事を上げ、帝は多く許して実行させた。
  • 翌年、病が篤くなっても自ら奏稿を削って救荒と弭盗の策を陳べ、その裁可を得たばかりで卒した。年六十一。太保を贈られ、肅敏と諡された。
  • 余子俊は沈毅で寡黙、偉大な構想を持ち、奏疏や公文は必ず自ら草した。毎夜、夜半に至ってようやく寝んだ。かつて「大臣は国のために謀るとき、自ら利害を負うべきである。怨みを遠ざけ恩を売って自己保身を図ることなどできようか」と言った。それゆえ榆林の事業の初め、怨嗟が渦巻いても余子俊はいよいよ堅く持ちこたえ、ついに成功して数世の利となった。
  • 性は孝友で、母の喪中には子の余寘に母親の会試を受けさせた。「律令には無いが、私の心が忍びない」と言った。廕を子に与えられるべき時、これを弟の子の余寰に移した。
  • 余寰は進士に挙げられ、戸部員外郎で終わった。余寘は武の廕により錦衣千戸となり、指揮同知で終わった。曾孫の余承勛・余承業はともに進士で、余承勛は翰林修撰、余承業は雲南僉事。

阮勤(余子俊伝附)

  • 阮勤はもと交阯の人で、父が内地に移って長子に籍を置いた。
  • 景泰五年(1454年)の進士に挙げられ、台州知府を歴任し、清廉慎重で恵政があったため、誥を賜って表彰された。
  • 右副都御史として陝西を巡撫し、墩台十四か所を築き、垣と塹三十余里を整えた。飢饉の年には七府の租四十余万石の免除を奏請した。
  • 中央に入って侍郎となり、南京刑部に移った。蛮邦の出身で中国に名を挙げた者としては、阮勤が第一である。