明史卷一百七十三 列傳第六十一 孫鏜

北京防衛と曹欽の乱

  • 孫鏜は字を振遠、東勝州の人。濟陽衛指揮同知を襲ぎ、朱勇の推薦で署指揮使に進んだ。正統末、指揮僉事に抜擢され左参将に充てられ、総兵官の徐恭に従って葉宗留を討ち、金華で賊を破り、また烏龍嶺で破った。
  • 英宗が北狩すると、景帝は鏜を召し還し、序列を越えて都督僉事に抜擢して三千営を管らせた。額森が侵入しようとしたので右都督に進めて総兵官に充て、京軍一万を統べて紫荊関で防がせた。出発しようとしたとき寇はすでに久しく入り込んでいたので、都城の外に営した。
  • 寇は徳勝門に迫って于謙らに退けられ、転じて西直門に至った。鏜は大いに戦ってその前鋒数人を斬り、寇はやや北に退いた。鏜が追うと寇は兵を増して鏜を囲んだ。鏜は力戦したが囲みは解けず、髙禮・毛福夀が援けに来て、禮は流れ矢に当たった。石亨の兵が至って寇はようやく退いた。詔して鏜に楊洪を副けて追わせ、涿州の深溝で戦ってかなりの斬獲があった。軍が還るとなお営務を管った。
  • 景泰の初め、楊洪が鏜を弾劾して獄に下し、石亨は鏜を殺すことを請うたが、江淵が「城下の役ではただ鏜の戦いが最も力があった」と言い、そこで釈された。
  • 三年冬、副総兵に充てられ郭登を協けて大同を鎮した。登の統制が厳しくて鏜は思うようにできず、軍を分けようとし、さらに子の百戸の宏に登を侮らせた。帝は宏を械につないだが、結局は鏜のゆえに宥した。召し還されて三千営を管ること元のとおりであった。
  • 英宗が復辟すると奪門の功で懐寧伯に封ぜられ、まもなく世券を与えられた。
  • 天順年間、甘肅が警を告げ、詔して鏜を総兵官に充て京軍を率いて赴いて討たせた。参内して暇乞いをしようとして朝房に病臥していたところ、夜二鼓に太監の曹吉祥、昭武伯の曹欽が反した。その部下の都指揮の馬亮が恭順侯の吳瑾に変を告げ、瑾は走って鏜に告げた。鏜は奏を草して東長安門を叩き、門の隙間から内廷に投じ入れ、それで初めて兵を集めて吉祥を縛り皇城の諸門を守ることができた。
  • 鏜は太平侯の張瑾の家に走って兵を求めて賊を撃とうとしたが、瑾はあえて出なかった。鏜はあわてて宣武街に走り、急ぎ二子の輔・軏を遣わして征西の将士を呼ばせ、偽って「刑部の囚が獄を破った。捕らえた者には重い賞がある」と言った。人がようやく集まって二千人になってから初めて事情を語った。時にすでに夜明けであった。
  • そこで欽を撃った。欽はちょうど東長安門を攻めて入れず、転じて東安門を攻めていた。鏜の兵が追いつくと賊はやや散った。軏が欽を斬って腕に当てたが、軏も殺された。欽は事が成らないと知って自分の家に逃げ帰り、なお衆を督して鏜を拒んだ。力戦して申の刻に至ってようやく収まった。論功して第一とされ、爵を世襲の侯に進め、なお三千営を管った。軏には百戸の世襲を贈った。
  • 鏜は粗野で猛々しく戦を善くしたが、しばしば法を犯した。初め太監の金英に賄って都督に遷ることを得、事が発覚して斬を論ぜられたが、景帝が特に宥した。天順の末、将士から賄を受けたことでしばしば弾劾され、自ら安んじられず引退を求めた。詔して営務および府軍前衛の事を解いたが、なお左府を掌った。
  • 憲宗が即位して中官の劉玉が罪を得ると、鏜は玉と縁組していたことに坐して禄を停められ閒住した。まもなく事情を陳べて半禄を与えられ、やがてまた自ら功状を陳べて禄を元のとおり給された。成化七年(1471年)に卒し、淶國公を贈り武敏と諡した。
  • 子の輔が嗣ぐことを請うたが、吏部は奪門の功は例として世に伝えられないと言った。帝は鏜が反乱を鎮めた者だとしてこれを与えた。子に伝え孫の應爵に至り、正徳年間に団営を総督した。四たび伝えて曽孫の世忠に至り、萬厯年間に湖廣を鎮守し漕運を総督すること凡そ二十年。さらに三たび伝えて孫の維蕃に至り、流賊が京師を陥れたとき殺された。
  • 鏜が奪門の功を偽って伯爵に封ぜられたとき、都督の董興および曹義・施聚・趙勝らもみなこの時に乗じて偽って封ぜられ世券を与えられた。興・義・聚には別に伝がある。

趙勝

  • 趙勝は字を克功、遷安の人。職を襲いで永平衛指揮使となった。正統末、西直門で寇を防ぎ都指揮僉事に進んだ。天順の初め、孫鏜らと奪門の功に与かり、序列を越えて都督僉事に遷り、また鏜と反乱者の曹欽を撃って同知に進んだ。
  • 保喇が甘肅を犯し、勝は李杲と左右参将に充てられ、白圭に従って西征し、固原に至って寇を撃ち退けた。憲宗が立つと鼓勇営の訓練を管った。
  • 成化改元、山西が警を告げ、将軍に拝されて雁門に宿営したが寇はすでに退いていたので還った。翌年、また出て延綏で寇を防いだが、ちょうど服属を申し出て来たので軍を旋らせた。まもなく耀武営を管った。四年、総兵官に充てられ遼東を鎮した。七年、召されて五軍営を管り、やがて三千営に改まった。
  • 伽嘉色凌が宣府を犯し、詔して勝を将軍とし京兵一万人を統べて防がせたが、これも寇が逃げたので召し還された。久しくして左都督に進み太子太保を加え、十九年(1483年)、昌寧伯に封ぜられた。
  • 勝は初め李杲と並んで名があったが、後にしばしば大軍を督しながら敵に会わず功がなく、縁故を頼って封を得たので、名声は大いに損なわれた。後に太保を加えられ、萬貴妃の墓所を営んでいて崖の石の間に落ちて死んだ。侯を贈り壮敏と諡された。
  • 𢎞治の初め、孫の鑑が爵を襲ぐことを乞うたが、吏部は勝には功がなく世に伝えるべきでないと言い、そこで錦衣衛指揮使を授けた。