明史卷一百七十三 列傳第六十一 朱謙
夏邑の人。永樂の初めに父の職を襲いで中都留守左衛指揮僉事となり、宣徳元年に萬全都指揮僉事、正統六年に巴延山・明安山で寇を破って都指揮使、翌々年には楊洪と克爾蒐で烏梁海を破って都督僉事に進んだ。土木の変では額森が上皇を擁して宣府城下に至っても門を開かず、楊洪に代わって宣府総兵官となり、景泰元年に關子口・南坡で寇を防いだ功により撫寧伯に封ぜられた。勇であって謀に乏しく、名は楊洪・石亨・郭登ほど著れなかったが、郭登の大同とともに宣府を守り抜いたことが額森に上皇返還を決意させた。翌年に鎮で卒し侯を贈られ、成化年間に武襄と諡された。子の永は保國公・太師に至り、孫の暉は大将軍の印を佩びながら功なき遠征を重ねて世に譏られた。
年表(10件)
- 天順四年1460年子の永が京軍を率いて宣府・大同の辺境を巡る
- 成化元年1465年永が白圭とともに荊襄の劉通の乱を討ち、論功して侯に進む
- 成化六年1470年永が王越らと延綏の阿勒楚爾を討ち、開荒川・牛家寨で大破する
- 成化十四年1478年永に太子太保が加えられる
- 成化十七年1481年永が汪直・王越と大同で伊斯瑪音を防ぎ、世襲の公を賜る
- 成化十九年1483年永が鎮朔大将軍として小王子の侵入を撃ち破る
- 𢎞治四年1491年太廟の監修が成って永が太師に進む
- 𢎞治九年1496年永が卒し、宣平王を追封され武毅と諡される
- 𢎞治五年1492年孫の暉が勲衛を授かる
- 正徳六年1511年暉が卒する
朱謙
- 朱謙は夏邑の人。永樂の初め、父の職を襲いで中都留守左衛指揮僉事となった。洪熙のとき陽武侯薛祿に属して北を征し功があり指揮使に進んだ。宣徳元年(1426年)、萬全都指揮僉事に進んだ。
- 正統六年(1441年)、参将の王真と巡哨して巴延山に至り寇に遇って撃ち走らせ、明安山に宿営して烏梁海の三百騎に遇いまたこれを破り、追って莽賚泉に至ったが寇は山の谷を越えて逃げ去ったので還った。時に謙はすでに都指揮同知に遷っており、そこで都指揮使とした。
- 八年、右参将に充てられ萬全左衛を守備した。翌年、楊洪と烏梁海の兵を克爾蒐で破り都督僉事に進んだ。部下がその不法を摘発したが、帝は今まさに秋の備えの時だとして宥した。また北征の功で都督同知に進んだ。
- 帝が北狩し、額森が擁して宣府の城下に至り門を開かせようとしたが、謙は参将の紀廣、都御史の羅亨信と応じず、額森は去った。右都督に進み、楊洪と入衛したが、着いたときは寇がすでに退いていたので追撃し、近畿で戦って利を失った。洪がこれを弾劾し、兵部はあわせて洪が救わなかったことを弾劾したが、景帝はいずれも問わなかった。
- 洪が入って京営を総べると、廷議は洪のような者を得て代えようとし、皆が謙を挙げた。そこで左都督に進めて総兵官に充て宣府を鎮守させた。
- 景泰元年(1450年)四月、寇三百騎が喜峯口に入り、また元の道から去った。敕を降して厳しく責められた。一月を越えてまた侵入したので、謙は兵を率いて防ぎ、關子口に宿営した。寇の数千騎が突然至り、謙は鹿角で拒み火器を放って撃った。寇は少し退き、このようなことが数度あった。謙の軍が退こうとすると寇はまた追って来た。都督の江福が援けたがこれも利を失った。謙の兵卒は力戦し、寇は入ることができなかった。
- 六月、また二十騎が南に侵入したので、謙は都指揮の牛璽らを遣わして防がせ、南坡で戦った。謙は塵が上がるのを見て参将の紀廣らを率いて馳せ援け、巳から午まで戦って寇は敗れ逃げた。論功して撫寧伯に封ぜられた。
- このとき寇の気勢は甚だ驕り、しばしば宣府・大同を擾し、二城は今にも落とせると思っていたが、謙が宣府を守り郭登が大同を守って、しばしばその衆を挫いた。額森は二人が手強いと知って、初めて一意に上皇を還すことにした。
- 八月、上皇が還って宣府を通り、謙は子の永を率いて出て見え、その使者を厚くねぎらった。やがて謙は誤って、寇五千騎が牆を毀って入ったと報じたが、調べるとそれは額森の貢使であった。詔して厳しく責められ、謙は恐れ入って謝した。翌年二月、鎮で卒し、侯を贈り、子の永が襲いだ。
- 謙は辺境にあること久しく戦を善くしたが、勇であって謀が少なかったので、その名は楊洪・石亨・郭登ほど著しくなかった。成化年間、武襄と諡された。
朱永――出自と河套の戦い
- 朱永は字を景昌。体躯も容貌も立派で、目を配ると威があった。初め宣府で上皇に見え、しばしば目を留められた。景泰年間、爵を嗣いで朝請を奉じた。英宗が復辟して永を見て気づき「これは朕に宣府で見えた者か」と言った。永は頓首して謝し、即日、召されて左右に侍り、宣威営の禁軍を分け領した。
- 天順四年(1460年)、宣府・大同が警を告げ、京軍を率いて辺境を巡らせた。七年、三千営を統べ、まもなく神機営を兼ねた。憲宗が立つと団営を督することに改まり、三千営を領することは元のまま。
- 成化元年(1465年)、荊襄の盗の劉通が乱をなし、永と尚書の白圭に赴いて討たせた。軍を南漳に進め、九百余を撃ち斬った。たまたま病で南漳に留まり、圭が大軍を率いて賊を破った。永が赴いて合流するとき、道で残る賊に遭い数百人を捕らえ斬った。その秋、また進んで右龍・馮喜を討ち、いずれも勝った。論功して侯に進んだ。
- 馮拉噶が辺境を犯し、将軍の印を佩びて彰武伯の楊信と合してこれを防いだ。ちょうど使を遣わして朝貢して来たので軍を還した。
- 六年(1470年)、阿勒楚爾が延綏を寇し、また将軍に拝され、都御史の王越、都督の劉玉・劉聚と赴いて討ち、蘇家寨で破った。寇の一万騎が雙山堡から五道に分かれて至り、開荒川で戦った。寇が少し退いたので勢いに乗じて馳せると、みな輜重を棄てて走った。牛家寨に至って都指揮の吳瓚に遇い、兵が少なく寇に囲まれたが、指揮の李鎬・滕忠が来てさらに力戦し、聚および都指揮の范瑾・神英が南山を分け拠って挟み撃ち、寇は大敗した。斬首百六、馬と牛数千を獲、阿勒楚爾は流れ矢に当たって逃げた。
- 当時、斬獲は多くなかったが、諸将はみな力戦して敵を追い、辺境の人は数十年来なかったことだと言った。論功して世襲の侯を与えられた。
- 阿勒楚爾は少し挫かれたがなお河套に拠り、翌年正月からしばしば侵入し、永の部下はしばしば斬獲があった。三月、また一万余騎で懐遠の諸堡を分けて掠めたので、永は越らと兵を五つに分けて伏を設けて破り、追って山口および鴻和爾圖河に至り、寇は敗走した。遊撃の孫鉞・蔡瑄は別に他の部を鹿窖山で破った。勝報が届いて璽書で労われた。永らが再び軍を還すことを請うたがいずれも許されなかった。寇がまた二万余騎で侵入して掠めたのを撃ち退け、年が暮れようとして永を召し還し、越を留めて三辺を総制させた。
朱永――汪直との出征と栄達
- 十四年(1478年)、永に太子太保を加えた。翌年冬、靖虜将軍に拝されて東を伐ち、中官の汪直が軍務を監督した。還って爵を保國公に進めた。
- またその翌年正月、延綏が警を告げ、永を将軍とし、越が軍務を提督し、直はなお監督として道を分けて塞を出た。越は直と軽騎を選んで孤店関を出、威寧海子で寇を捕らえたが、永が率いた大軍は西路から榆林に出て敵に遇わず、道は迂遠で兵糧を巨万費やし、死んだ馬は五千余匹であった。こうして越は伯に封ぜられ、直は廕と賜与が格別であったが、永は功がなく賞は行われなかった。久しくして太子太傅に進んだ。
- 十七年(1481年)二月、また直・越と師を出して大同で伊斯瑪音を防ぎ、首功百二十を獲、世襲の公を賜った。
- 十九年(1483年)秋、小王子が辺境に入り宣府・大同が急を告げた。越と直はすでに処分を受けていたので、永を鎮朔大将軍とし、中官の蔡新がその軍を監し、諸将の周玉・李璵らを督してこれを撃ち破った。還ってなお団営を督した。
- ある者が匿名の書を仕掛けて永が謀反を図っていると言い、永は兵権を解くことを乞うたが許されなかった。その冬、帝の手ずからの敕で太傅・太子太師を加えた。
- 𢎞治四年(1491年)、太廟の監修が成って太師に進んだ。永は軍を治めること厳粛で、赴く先々で多く功を奏し、前後に八たび将軍の印を佩び、内は十二団営を総べ都督府を兼掌し、列侯の勲名で比べる者はなかった。九年(1496年)に卒し、宣平王を追封され武毅と諡された。
- 子の暉が嗣いだ。給事中の王廷が、永の功は公に当たらないと言い、朝議は一代だけ襲がせ、後はみな侯とすることに止め、詔して許された。
朱暉――名ばかりの遠征
- 暉は字を東陽。長身に美しい髯、人はその威厳の重さが父に似ていると称した。またしばしば父に従って塞下に赴き行陣を経たので、当時は才ありとされた。𢎞治五年(1492年)、勲衛を授かり、五十に近くなって初めて爵を嗣ぎ、神機営を分掌した。十二年、京営の大帥を置き換えたとき、暉に三千営を督させ右府の事を兼領させた。
- 和碩が大同に入り、平江伯の陳鋭らが防げなかったので、暉に大将軍の印を佩びさせて代えたが、着いたときには寇はすでに退いていたので還った。
- 翌年春、和碩が小王子と連なって延綏・寧夏に大挙して侵入し、右都御史の史琳が援兵を請うた。また暉に大将軍の印を佩びさせ、都督の李俊・李澄・楊玉・馬儀・劉寧の五将を統べて赴かせ、中官の苗逵にその軍を監させた。寧夏に着くと寇はすでに存分に掠めて去っていたので、琳・逵と五路の軍を率いて河套の本拠を突いたが、寇はすでに幕営を移しており、わずかに斬首三級、馬・駝・牛羊千五百を獲て帰った。
- まもなく寇が固原に入り、転じて平涼・慶陽を掠め、関中は大いに震えた。両鎮の将は城に籠って戦おうとせず、暉らは怖じ気づいて急ぎ駆けつけなかった。着いたときには斬首十二人、掠われた捕虜四千を取り戻し、これで勝報とした。
- この役では大帥に勝ちを制する才がなく、行軍は迂回して紀律がなく、辺民の死者は野に満ち、諸郡は輸送に困窮し、軍を養う費は八十余万、その他の徴発もこれに準じ、前後わずかに首功十五級を獲ただけであった。廷臣が連ねて章を上げて三人の罪を弾劾したが、帝は問わなかった。
- やがて本拠を突いた功があるとして将士一万余人を上げた。尚書の馬文升、大学士の劉徤がこれを抑えたが、帝は先に逵らの言を容れており、結局二百十人を録して職を署すること一級を与え、他はみな賜与を受けた。軍を還すとき、帝はなお中官を遣わして羊と酒を持たせて出迎え労わせた。言官が極力暉の罪を論じたが、ついに聴かなかった。暉に団営を総督させ三千営・右府を領することは元のままとした。
- 武宗が即位すると寇が大挙して宣府に入り、また暉に逵・琳とともに軍を率いて赴かせた。寇は転じて大同を掠め、参将の陳雄が八十余級を撃ち斬り、掠われた人口二千七百余を取り戻した。暉らは勝報を奏して功ある将士二万余人を列挙した。兵部侍郎の閻仲宇、大理丞の鄧璋が赴いて調べ、報告の多くは事実でなかったが、結局は逵のゆえに一同はみな賜与を受けた。
- 劉瑾が権を握ると、暉らはさらに功を録することが薄すぎると奏し、成化年間の白狐莊の例に依ることを請うた。兵部は力めて争ったが容れられず、ついに暉の言に従って抜擢された者は千五百六十三人。暉は太保を加えられた。正徳六年(1511年)に卒した。
- 子の麒が侯を襲いだ。かつて総兵官に充てられ両廣を鎮し、姚鏌と田州を平らげ岑猛を誅し、太子太保を加えられた。嘉靖の初め召し還され、久しくして南京を守備して卒した。子の岳が嗣ぎ、これも南京を守備し、隆慶年間に卒した。四たび伝えて孫の國弼に至る。天啓年間、楊漣が魏忠賢を弾劾したとき、國弼もまた速やかに処分を賜うことを乞うた。忠賢は怒ってその歳禄を停めた。崇禎のとき京営を総督した。温体仁が国政を握ったとき、國弼は抗議の疏を上げてこれを弾劾し、詔してその食客および疏を書き写した者を捕らえて獄に下し、禄を停めることは以前のとおりであった。南京に至って保國公に進み、そこで馬士英・阮大鋮と結んで明の滅亡に至った。