范廣
- 范廣は遼東の人。正統年間に世職を嗣いで寧遠衛指揮僉事となり指揮使に進んだ。十四年(1449年)、功を積んで遼東都指揮僉事に遷った。廣は騎射に精しく驍勇は並ぶ者がなかった。
- 英宗が北狩し、廷議が将材を挙げたとき、尚書の于謙が廣を薦め、都督僉事に抜擢して左副総兵に充て石亨の副とした。額森が京師を犯すと、廣は馬を躍らせて陣に突き入り、部下がこれに従って勇気は百倍した。寇が退くとまた追って紫荊関で破った。功を録して正式の任官を命ぜられた。
- まもなく都督同知に進み、出て懐来を守り、まもなく召し還された。景泰元年(1450年)二月、亨が出て辺境を巡ったとき、都督の衛頴が大営を統べ、廣に協理を命じた。三月、寇が宣府を犯し、兵部に敕して諸営の将を集めて将材を選ばせ、皆が廣を挙げ、総兵官に充てて都御史の羅通とともに兵を督して巡哨させ、居庸関の外に駐まること数か月で京に還った。
- 石亨を副けて団営の軍馬を提督した。亨の行いは不法で、その部下の多くは貪欲で放縦であった。廣がしばしばこれを言ったので亨は含み、讒言して廣を罷めさせ、ただ毅勇の一営を領させるだけにした。また都督の張軏らとも折り合わなかった。
- 英宗が復辟すると、亨と軏は奪門の功を恃んで、廣が于謙に党して外藩を立てることを謀ったと誣告し、そこで獄に下して死を論じ、子の昇を広西に流し、その家を籍没し、妻子と邸宅を降丁に賜った。
- 翌年春、軏が早朝から還る途中、拱手して礼をする仕草をした。左右が怪しんで問うと「范廣が通り過ぎるのだ」と言った。そのまま病を得て眠れなくなり、痛み苦しむこと一月余りで死んだ。
- 成化の初め、廷臣が廣の冤を訴え、子の昇に世職を襲がせた。廣の性は剛毅果断で、陣に臨むたびに士卒に先んじ、かつて敗れたことがなかった。当時の諸将はことごとくその下に出、最も于謙に信任されたので、同輩に忌まれた。
史論
- 贊に曰く。楊洪・石亨の輩は多事の時に遭って爪牙の力を奮い、侯の封と世券が一門を照らし輝かせた。功に報いることもまた厚すぎた。
- 洪は満ち足りることの懼るべきを知っていたが、亨は邪で残忍、粗野で傲り、寵を恃んで驕った。その一族が誅されたのは当然である。
- 朱謙の勇と略は郭登に及ばなかったが、登には跡継ぎがなく、謙の子の永は爵を上公に進め、子孫は代々侯として絶えなかった。孫鏜と范廣は戦を善くすることがほぼ相等しかったが、廣は冤罪で死んだ。遭う所に幸と不幸があり、その隔たりはなんと遠いことか。