明史卷一百七十四 列傳第六十二 史昭

篇首の立伝者一覧

  • 底本の巻頭には、この巻に伝を立てた者と附伝の者が次のように並べて掲げられている。史昭(劉昭・李達を附す)、巫凱(曹義・施聚を附す)、許貴(子の寧を附す)、周賢(子の玉を附す)、歐信、王璽、魯鑑(子の麟・孫の經を附す)、劉寧(周璽・莊鑑を附す)、彭清、姜漢(子の奭・孫の應熊を附す)、安國、杭雄。

涼州・西寧の鎮守

  • 史昭は合肥の人。永樂の初め、戦功を積み重ねて都指揮僉事に至った。
  • 永樂八年(1410年)、總兵官として涼州に鎮した。土軍の婁達哈が、先に千戸の呼巴とともに反乱を起こしていたが、呼巴が敗れると婁達哈は帰順を申し出た。昭は必ず再び叛くと上書したが、その書が届かぬうちに婁達哈は果たして叛いた。昭は都指揮の滿都らとこれを撃ち平らげた。
  • のち西寧に移鎮した。仁宗が即位すると都督僉事に進み、西寧の風俗は粗野で荒っぽいので中原と同じく學校を設けたいと上言し、許された。
  • 宣德の初め、昭は衞の軍が守禦に追われて屯田する暇がないため、その家族のうち耕作を望む者七百七十餘人に田を耕させ、収穫から賦を取って軍糧に充てたいと請い、聴き入れられた。
  • 宣德五年(1430年)、庫森衞の都指揮使サチス(薩竒蘇)が西域の使臣を待ち伏せて略奪した。昭は參將の趙安、中官の王安・王瑾を率いて討ち、一気に庫森まで進んだ。サチスは風を望んで逃げ、その一味の達勒達・布哈らを捕らえ、男女三百四十人、馬・駝・牛・羊三十餘萬を獲た。威名は塞外に轟き、報せが届くと璽書で慰労され、賞賜は等を加えられた。
  • 宣德七年(1432年)春、征西將軍として寧夏に鎮した。博廸・達爾瑪が邊を侵したので兵を遣わして撃たせ、庫爾台・察罕に至って捕獲するところ甚だ多く、都督同知に進んだ。
  • 正統の初め、寧夏は河外に孤立し東は綏德まで二千里、広く遠くて守りにくいとして、花馬池に哨馬營を築き烽堠を増設することを請うた。哈喇烏遜まで直につながり、邊備は大いに固まった。まもなく右都督に進んだ。
  • 当時アルタイ(阿勒台)のドルジパル(多爾濟巴勒)がしばしば邊を侵した。詔により昭は甘肅の守將である蔣貴・趙安とともに進撃したが、いずれも功なく、詔で厳しく責められ、都督僉事に貶された。正統三年(1438年)に右都督に復した。
  • 正統八年(1443年)、老齢のため召還され、翌年に卒した。
  • 昭は寧夏に十二年おり、老成持重で兵政をよく整えた。折しも敵の勢いが衰えていたこともあって邊境は無事であった。兵部尚書の王驥と寧夏參將の王榮がその過失を挙げたことがあったが、朝議は昭が長く邊を守り兵事に習熟しているとして交代させなかった。
  • 昭と並んで邊將を最も長く務め、称すべき勲績のあった者としては、都督同知の劉昭が西寧に鎮すること二十年、都指揮の李達が洮州に鎮すること四十年に及び、ともに蕃・漢の人々から畏れ服された。

劉昭(附伝)――河州・西寧の鎮守

  • 劉昭は全椒の人。永樂五年(1407年)、都指揮同知として朶甘・烏思藏に使いし、驛站を設けた。帰路、靈藏で番の賊に待ち伏せられたが、これを破った。都指揮使に進んで河州に鎮した。
  • 宣德二年(1427年)、陳懷の副将として松潘の賊を討ち平らげ、累進して都督同知となり、西寧に移り、また河州に鎮して西寧を兼轄した。
  • 罕東の酋長ジャルジェ(扎爾結)が、西域へ遣わされた中官を待ち伏せて殺し、璽書と金幣を奪い去った。昭に命じて甘肅總兵官の劉廣の副として討たせたところ、ジャルジェは奪った書と幣を返し馬を貢いで罪を贖いたいと請うた。帝は窮した賊は深く咎めるに足りないとして、昭らを還らせた。
  • 李達は定遠の人。累進して都督僉事に至り、正統年間に致仕した。