明史卷一百七十二 列傳第六十 王軾

王軾

  • 王軾は字を用敬、公安の人。天順八年(1464年)の進士で大理右評事を授かり右寺正に遷った。四川で囚人を審らかにして百余人の罪を覆した。四川副使に抜擢され、凶年に官の銀十万両を米の買い付け費に充てることを請うた。嘉定同知の盛崇仁の贓罪を糾したために逆に暴かれて吏に下されたが、事が明らかになり職に還り、陝西に改まった。
  • 𢎞治の初め、四川按察使に抜擢され、三年、南京右僉都御史に遷って操江を提督した。八年、右副都御史に進み南京の糧の備蓄を総理し、まもなく貴州巡撫を命ぜられた。翌年、入って大理卿となり、詔して刑部とともに条例を裁定して天下に頒たせた。
  • 十三年(1500年)、南京戸部尚書に拝され、まもなく左副都御史を兼ねて貴州軍務を督し、普安の賊婦の米魯を討つよう命ぜられた。当時、鎮守中官の楊友、総兵官の曹愷、巡撫の錢鉞が共に兵を発して魯を討ったが、阿馬坡で大敗し、都指揮の吳遠は捕らえられ、普安はあやうく陥ちるところであった。友らが援兵を請うたので軾に命じた。
  • 軾がまだ着かないうちに友らは人を遣わして賊を招いた。賊は降ろうと言いふらしながら、ますます衆を擁して普安・安南衛城を攻め囲み、盤江の道を断ち、勢いはいよいよ盛んになった。また隙に乗じて友を脅し捕らえ、右布政使の閭鉦、按察使の劉福、都指揮の李宗武・郭仁・史韜・李雄・吳達らが死んだ。
  • 軾は着くと便宜のはからいで広西・湖廣・雲南・四川の官軍・土兵八万人を動員し、貴州の兵と合わせて八道から進み、致仕都督の王通に一軍を率いさせた。
  • 十五年(1502年)正月、参将の趙晟が六墜砦を破り、賊は逃げて盤江を越えた。都指揮の張泰らが江を渡って追撃し、指揮の劉懐らが進んで安南衛の囲みを解いた。愷・通および都指揮の李政もそれぞれ賊の砦を破った。賊は還って平夷衛および大河・扼勒の諸堡を攻めたが、都御史の陳金が雲南の兵で防いだ。賊は逃げて馬尾籠寨に帰り、官軍が集まって攻めることますます急となり、土官の鳯英らが米魯を討ち殺し、余党はついに平らいだ。
  • 用兵は凡そ五か月、賊の砦千余を破り、斬首四千八百余、俘獲一千二百。勝報が届いて帝は大いに喜び、嘉し労って京に召し還し、賜与は格別で、功を録して太子少保を加えた。やがて南京兵部に改まって機務を参賛した。しきりに致仕を乞うたが許されず、武宗が立って病に遭い改めて請うたので、詔して太子太保を加え、敕を賜って駅伝で帰らせた。卒して太保を贈り、襄簡と諡した。