明史卷一百七十二 列傳第六十 鄧廷瓚

鄧廷瓚

  • 鄧廷瓚は字を宗器、巴陵の人。景泰五年(1454年)の進士で淳安県を治めて恵政があった。母の喪に遭い、喪が明けて太僕寺丞に遷った。
  • 貴州に新設された程番府は万山の中にあり、蛮・獠が入り混じって住んでいて、吏部はその人選に苦しみ、特に廷瓚を知府に抜擢した。着任すると心を尽くして計画を立て、城郭・街路・学校・壇廟・官舎を順次に建て、諸獠に高札で示して取り決めを受けさせ、政は平らかで令は和した。巡撫の陳儼がその治績を上げ、帝は久しく任じ、九年の任期満了でようやく山東左参政に遷り、まもなく右布政使に進んだ。
  • 𢎞治二年(1489年)、右副都御史として貴州を巡撫した。廷瓚は県令から守に至るまで常例の異動に沈むこと三十余年を越え、ここに至って知府を離れてわずか三年で開府(都御史)に至った。生母の喪で帰り、喪が明けて元の任に還った。
  • 都匀の苗の乜富架・長脚らが乱をなしたので、敕して廷瓚に軍務を提督させ、湖廣総兵官の顧溥、貴州総兵官の王通らとともに討たせた。副使の吳倬が熟苗を遣わして偽って降らせ、富架を誘って侵入させ、伏兵でその父子を捕らえた。官軍は勝ちに乗じて続けて百余の寨を破り、長脚を生け捕って帰り、群蛮は震え上がった。
  • 廷瓚は言った、「都匀・清平には古くから二衛九長官司を置いているが、その人はみな世襲の禄で自ら法を用い、ほしいままに虐げて苗民を暴発させ、乱れること四十余年になる。今、元凶は除かれた。大いに改めなければならない。府県に改めて流官を置き、土官と兼ね治めさせれば、久しく安んじられよう」。そこで善後の十一事を上げ、帝はことごとく従った。ついに府一つ(都匀)、州二つ(獨山・麻哈)、県一つ(清平)を設け、苗の患いはこれより次第に収まった。論功して右都御史に進んだ。
  • 八年(1495年)、召されて南京都察院の事を掌ったが、わずか数か月で両廣軍務を提督し巡撫を兼ねることを命ぜられ、二年を越えて左都御史に進んだ。廷瓚の政は簡素を尊び、吏務についてはただ大綱を総べるのみで、群蛮を恩と信で結び、軽々しく兵を用いず、しかも兵を出せば必ず功を成した。鬱林・雲罏・大桂の諸蛮および四会の飢民が乱をなしたが、順次に討ち平らげ、両廣はついに無事となった。
  • 十三年(1500年)、また召されて南院を掌ることになったが、まだ赴かないうちに卒した。太子少保を贈り、襄敏と諡した。廷瓚は雅量があり、人に接して疑わず、当時多く長者と称えられた。施すところに至っては動けば時宜にかない、貴州にあって苗を平らげた功はとりわけ偉大であった。