明史卷一百七十二 列傳第六十 孔鏞

連山・高州の招撫

  • 孔鏞は字を韶文、長洲の人。景泰五年(1454年)の進士。都昌県を治め、戸を九等に分けて役を定め、水辺に倉を設けて収納に便ならしめ、民は大いに頼った。弟の銘が寧府の郡主を娶ったので連山の知県に改まった。
  • 猺・獞が隣境に出没して県民はことごとく逃げていた。鏞は赴いて招いたが民は驚いて走った。鏞は民家で飯を炊き、銭を置いてその民に償って去った。民は次第に親しみを覚え、そろって還った。鏞は労い救い、旧業に復させ、戦守を教えたので、道路は次第に通じ県の役所もついに復した。
  • 都御史の葉盛が広西を征したとき鏞を従わせた。諸将がみだりに殺そうとするたびに鏞は力めて争い、命を救われた者が甚だ多かった。
  • 成化元年(1465年)、葉盛らの推薦で高州の試知府に抜擢された。前任の知府の劉海は猺の警報に城門を閉じて自らを守り、猺を避けて来た郷民をそのつど納れなかったため、かえって猺に殺された。また民がひそかに賊に付いていると疑ってそのつど殺したので、賊はこれによって衆の怒りを煽って内応させ、城はついに陥ちた。
  • 鏞が着くと門を開いて来る者を納れ、逃亡していた者は日々帰ったが城が収容しきれないので、別に城の東北に築いて住まわせた。城郭の近くに露わになった骸が多く、民が疫病で死んでいたので、義塚を作って埋めた。

単騎で賊の巣に入る

  • 当時、境内に屯する賊は凡そ十余部で、その首魁の馮曉は化州に、鄧公長は茅峒に屯し、幾度招いても応じなかった。鏞はある日、単騎で二人を従え、まっすぐ茅峒に至った。峒は城から十里ほど。道で賊の徒に遭い、還って「私は新任の太守だ」と告げさせた。公長はにわかに新任の守が来たと聞き、急いでその党を呼んで甲を着けて迎えた。見ると鏞は淡々として供回りもなく、気勢は大いに挫けた。鏞はゆっくり馬を下りて入り庭中に坐した。公長はその徒を率いて甲を緩め並んで拝した。
  • 鏞は諭した、「汝らはもと良民で、凍えと飢えに迫られただけだ。前の守は汝らを兵で討とうとしたが、私は今、命を奉じて汝らの父母となった。汝らは私の子だ。私を信じるなら私を送り帰せ。粟と帛を与えよう。信じないなら私を殺せ。すぐに大軍が来て生き残る者はなくなる」。公長はためらったが、その党はみな心を動かされ悟って涙を落とした。鏞は「腹が減った。食わせてくれ」と言った。公長は跪いて酒と食事を供した。食べ終わると「日も暮れる。泊まろう」と言い、夜は衣を解いてぐっすり眠った。賊は顔を見合わせて驚き服した。
  • 二泊して帰るとき、道端に裸で木に吊るされている者が累々としていた。尋ねるとみな諸生であった。命じてことごとく釈させた。公長は数十騎を遣わして囲んで送らせた。城中の人は望み見てみな大いに驚き、知府が捕らえられて騙して降らせに来たのだと思って、ことごとく城壁に登った。鏞は騎を城外に止め、独り痩せた卒とともに入って穀と帛を取って持ち帰らせた。公長はますます感激し、ついにその巣を焼き、党数千人を率いて降った。
  • 公長が降ると諸賊も次々と服属を申し出たが、曉だけが険を恃んで服さなかった。鏞は壮士二百人を選んで夜に乗じて化州に至った。曉はあわてて逃げ隠れ、その妻子を捕らえて帰り、きわめて厚く撫し恤んだので、曉もまた五百人を率いて降った。
  • やがて僉事の陶魯と廖婆堡で賊を破り、他の賊も前後に来襲したが多くは敗れ去り、境内は大いに定まった。上官がそろって薦めて按察副使に抜擢され、高州・雷州二府を分巡し、さらに手強い賊の梁定・侯大六・鄧辛酉らを招いて田産を給し、内地に分けて住まわせ、官のために他の盗に備えさせた。広西の賊が信宜・岑溪を犯したが、みな撃ち破った。治績が聞こえて誥命を賜って表彰された。
  • 喪に遭い、喪が明けて広西に改まると、猺は鏞が来ると聞いてことごとく遠く逃げた。十四年(1478年)、兵部がその功を上げ、銀と幣を賜った。まもなく按察使に進んだ。荔浦の賊が来襲したとき、総督の朱英が兵を鏞に属して撃ち平らげさせ、二品の禄を食むことに進んだ。やがて左布政使に遷り、まもなく右副都御史として貴州を巡撫した。
  • 清平部の苗の阿溪なる者は荒々しく知恵が回り、その養子の阿賴はとりわけ力があって諸部の中を横行した。守臣はみな溪の賄を受けており、驕って制することができなかった。鏞は管内を巡って清平に至り、溪が親しくしている者二人を探り出し、計をもって溪を捕らえて磔にし、あわせて雞背の苗を討ち平らげ、群蛮は震え上がった。
  • 鏞は官にあって清廉、仕えること三十余年、いずれも辺境で瘴気に触れて病となった。引退を乞うたが許されなかった。𢎞治二年(1489年)、召されて工部右侍郎となったが、道中で卒した。年六十三。
  • 平樂の李時敏は信宜知県として、かつて鏞とともに猺の乱を討ち平らげて功があり、化州の知に遷った。粤の人は孔・李を並び称した。