張瓚
- 張瓚は字を宗器、孝感の人。正統十三年(1448年)の進士で工部主事を授かり郎中に遷った。太原・寧波二府の知府を歴任して善政があった。成化の初め、市舶中官の福住が貪欲ほしいままであったので、瓚はその手下を取り締まった。住は朝廷で瓚を誣告したが、瓚は住の罪を列挙し、住は責めを受け、その党の多くが法に当てられた。
- 大臣の連名推薦で広東参政に遷り、浙江左布政使に転じた。十年(1474年)冬、右副都御史として四川を巡撫した。播州の致仕宣慰の楊輝が、所属の天壩・干灣溪の諸寨および重安長官司が生苗にひそかに占拠されていると言い、王師の進討を請うた。詔して瓚に侵された地を返すよう諭させ、服さなければ征させた。瓚は兵を率いて討ち定め、安寧宣撫司を設けて輝の子の友を宣撫に授けて鎮させることを請い、詔して許された。敕を賜って労われた。母が老いたので帰ることを乞うたが、母はすでに卒していた。
- 松潘・茂州の番が辺境を侵したので、詔して起復させて職務に就かせた。先に僉事の林璧が言っていた、「松潘・茂州は昔は大鎮で、都御史の寇深、侍郎の羅綺がかつて便宜を委ねられてその地を専制したので功があった。今はただ両参将を置くだけで、副使が中央にいて采配している。事の権は軽く、敵に臨んで制府に指示を仰ぐにも千里を隔て、戦を請えば謀は洩れ機は緩む。利を得た者がない。別に重臣を置いて押さえるか、あるいはそのまま瓚に兼領を命じてその責を専らにさせるべきである」。
- 十二年(1476年)七月、瓚に松潘・茂州・安綿・建昌の軍務を兼ね督させた。瓚は軍に着いて形勢を見極め、大壩に旧設の副使を安綿に移し、副総兵の堯彧を松潘に、参将の孫暠を威州・疊州に配して挟撃の計とした。隙に乗じて河西の旧道を修め、浮橋を作り月城を築き、偏橋の桟道を避け、軍は安んじて行き輸送も滞らなくなった。
- 十四年(1478年)六月、白草埧・西坡・禪定の数か所の大砦を攻めて斬獲は数知れず、茂州を回り、疊溪まで通る所は降り従った。曲山の三砦に至ってこれを攻め破り、再び白草壩の残る寇を討ち平らげ、前後に五十二砦を破滅させ、賊魁の撒哈らはみな滅ぼされ、他の百五砦はことごとく馬を献じて服属を申し出た。諸番はことごとく平らぎ、兵を留めて要害を守らせ、墩堡を増置してから軍を還した。
- 帝はその功を嘉して召して戸部左侍郎に拝したが、辞して帰り喪を終えた。十五年、左副都御史に起用されて漕運を総督し江北諸府の巡撫を兼ねた。十八年(1482年)、年に大凶があり、上疏して救済を請うて銀五万両を出させた。さらに瓚に敕して淮安の倉糧を移して分け振わせようとしたが、瓚はすでに卒していた。
- 瓚の功名は西蜀に著しく、その後に蜀を撫した者は謝士元らのように名があっても瓚に及ばなかった。ただ天壩干の役については、楊輝が庶出の長子の友を溺愛して官につけようとし、生苗が乱をなしたと偽り、瓚がそれを信じて兵を興したので、その功には粉飾がないでもないと言う者がある。
謝士元
- 謝士元は字を仲仁、長樂の人。景泰五年(1454年)の進士で戸部主事を授かり通州倉を督し、四つの弊を陳べ、しばしば倉を監する宦者と衝突した。天順七年(1463年)、建昌知府に抜擢された。土地に盗が多く軍将に庇われていたが、士元は他の事にかこつけて軍将を抑え、不正はそのつど発覚した。
- 民が証文を持って田宅を訴えたとき、士元は「偽物だ。証文は今の様式なのに訴えの内容は二十年前のことだ」と叱った。民は驚き服し、訴訟は減って止んだ。考課満期で従三品の俸に進み、府の事を治めることは元のまま。喪で去り、喪が明けて広信知府となった。
- 永豊に銀鉱があり、処州の民が盗掘して数千人を集めた。将士はその猛々しさを憚って討とうとしなかったが、士元は兵を率いて赴いた。賊は遮って刺し、士元は左股を傷つけられたが、傷を包んで力戦し、その首魁を捕らえて鉱穴を塞いで還った。入覲して永平に改まり、喪に遭って赴かなかった。喪が明けて四川右参政に抜擢され、右布政使に進んだ。
- 𢎞治元年(1488年)、そのまま右副都御史に抜擢されてその地を巡撫した。土番の大小娃なる者が乱を煽ろうとしたので、士元は辺境巡視と称してその地に赴いた。賊は恐れて道の左に並んで拝し、静かに慰めて帰らせた。年に大凶があって流民が食を求めて来たが、士元は救済に方策があり、命をつないだ者は数万に及んだ。翌年、事に連座して獄に下ったが、事が明らかになり致仕した。