馬謹
- 馬謹は字を守禮、新樂の人。宣徳二年(1427年)の進士。父母に仕えて孝であり、喪に遭うと自ら土を運んで葬った。正統年間、御史として浙江を按じた。当時、倭に備える海船を修繕するため厳州・衢州の諸郡から材木を徴していたが、謹は軍士が勢いを借りてほしいままに伐ることを恐れ、禁じ戒めることを請い、許された。赴く先々で貪欲狡猾な者は影をひそめた。上疏して台州・処州・寧波・紹興の四府の飢えを救った。
- 吏部驗封郎中が久しく欠員で、帝は人選を命じた。ちょうど謹が九年の考課満期に当たり、尚書の郭璡が謹の廉直を薦めて用いられた。十年、薦められて湖廣右布政使に抜擢された。
- 正統の末、湖廣の叛いた苗が靖州を掠めたので、謹に御史の侯爵とともに撫し諭させ、参将の張善が兵を率いて続いた。謹らが着いて数千人を招いて生業に復させ、出て掠める者は撃ち破った。まもなく善と淇溪の諸寨を破った。景泰の初め、また善と臘婆の諸洞を大いに破った。やがて参将の李震とともに青龍渡・馬楊山の諸賊を撃ち破り、追って雞心嶺に至り、前後に斬首千四百余。
- 軍が還ると靖州の賊がまた出て掠めたので、その本拠を突き、斬獲は前と同じであった。武岡・城溪の諸賊が広西の蛮と結んで青肺山に拠ったので、また震とこれを攻め破り、賊の楊光拳ら五百六十人を捕らえ、斬首はその倍であった。扶城の諸砦は噂を聞いて服属した。
- 謹は軍中に出入りすること三年、刃と矢を冒すことは諸将と同じで、しかも輸送と兵糧の功はとりわけ多かった。左布政使に転じ、功を録して秩を一等進めた。六年(1455年)五月、右副都御史に遷り、なお二品の俸を支給されて河南を巡撫し、流民三万一千余戸を撫した。天順の初め、巡撫官が廃されて謹も罷めて帰り、久しくして卒した。謹の性は廉潔剛直で、楊士奇はかつて「氷霜鉄石」と称えた。