明史卷一百七十二 列傳第六十 張驥

出自と山東・淮揚の治績

  • 張驥は字を仲德、安化の人。永樂年間に郷試に挙がって国学に入った。宣徳の初め、御史を授かり、出て江西を按じ、福建で囚人を審らかにし、仁廉の評判があった。正統八年(1443年)、吏部尚書の王直らが詔に応じて廷臣のうち公正・清廉で学識・徳行のある者を広く挙げたとき、驥もその中に入った。
  • 大理右寺丞に遷って山東を巡撫した。先には済南に撫民官を置いて専ら流民を撫していたが、後にはかえって民の煩いとなったので、驥は奏して廃させた。風俗として旱に遇うと新しく葬られた塚墓を掘り、その手足を損なうことを旱の原因とみなし、「打旱骨椿」と呼んでいたが、驥の言により禁絶された。
  • 朝に還って右少卿に進み、まもなく済寧から淮・揚に至る飢民を巡視するよう命ぜられた。驥は方法を定めて蝗を捕らえ、急がぬ事業を停め、未納を免じ倉を開き、民はこれによって救われた。

浙江の鉱徒の乱

  • 十三年(1448年)冬、浙江を巡撫した。初め慶元の人の葉宗留が麗水の陳鑑胡らと衆をなして福建の寳豊の諸銀鉱を盗掘したが、やがて群盗が互いに殺し合って乱となった。九年七月、福建参議の竺淵が捕らえに赴いて捕らえられ死んだ。宗留は王を僭称した。時に福建の鄧茂七もまた衆を集めて反し、勢いが甚だ盛んであった。宗留と鑑胡の一党は浙江・江西・福建の境を荒らし回り、参議の耿定、僉事の王晟、および都督僉事の陳榮、指揮の劉真、都指揮の吳剛・龔禮、永豐知県の鄧顒が前後に敗れて死んだ。遂昌の賊の蘇牙・俞伯通が蘭溪を荒らし、これと呼応したので遠近が震え動いた。
  • 驥が着くと金華知府の石瑁を遣わして牙らを撃ち斬り、その余党を撫し定めた。鑑胡はちょうど争いの憤りから宗留を殺してその衆を独占し、自ら大王と称し、国号を太平、年号を泰定とし、偽の将帥を置き、処州を囲み、武義・松楊・龍泉・永康・義烏・東陽・浦江の諸県を分けて掠めた。まもなく茂七が死んで鑑胡の勢いは孤立した。
  • 驥は麗水丞の丁寧に老人の王世昌らを率いて高札を持たせ賊の本拠に入って招かせた。鑑胡はついにその党とともに出て降った。ただ陶得二だけは撫に従わず、使者を殺して山に入り、以前どおり乱をなした。正統十四年(1449年)四月のことである。
  • 驥が鑑胡を招き降した後、別の賊の蘇記養らが金華を掠めたのも官軍に捕らえられ、賊の勢いはますます衰えた。その秋、景帝が位を嗣いで驥を召し還したが、道中で卒した。驥は赴く先々で成果があり、山東・両浙の民は久しく偲んだ。
  • 鑑胡は京に至り、帝は宥して誅さず、さらに赦に遇って釈され、守衛の軍に留められた。額森が侵入したとき、鑑胡は隙に乗じて逃げたが、捕らえられて誅に伏した。
  • 竺淵は奉化の人、耿定は和州の人、王鄆は鄆城の人、鄧顒は樂昌の人。いずれも進士である。顒は兵が潰えて捕らえられ、屈せずに死んだ。詔して葬を営ませ、淵らには官を贈って子一人を録した。