明史卷一百七十二 列傳第六十 楊信民

楊信民

  • 楊信民は名を誠といい、字で通った。浙江新昌の人。郷挙から国学に入り、宣徳のとき工科給事中に任じられた。母の喪で帰り、葬を営むのに土石は必ず自ら数百歩担いで運び、「私が私の母を葬るのに、もっぱら他人を使うのは心安らかでない」と言った。喪が明けて刑科に改まった。
  • 正統年間、江西で軍籍を整理し、還って民の隠れた苦しみ五事を奏し、多くが議されて実行された。まもなく王直の推薦で広東左参議に抜擢された。清廉な操守は世に絶し、常に田野を回って利害を尋ねては改めた。
  • 性は剛で気概があった。按察使の郭智が不法だったので信民はこれを弾劾して獄に下した。黄翰が智に代わると、信民はまたその奸を暴いた。さらに僉事の韋廣を弾劾すると、廣はそこで信民を暴き立て、翰とともに逮捕された。軍民は騒然として闕下に詣でて信民の留任を乞い、詔して信民の官を復し、翰と廣は取り調べで事実と認められて除名された。
  • 景帝が監国のとき于謙が薦め、白羊口の守備を命ぜられた。広東の賊の黄蕭飬が広州を囲んで急だったので、嶺南の人が信民を求め、右僉都御史としてその地を巡撫させた。士民は聞いて共に喜び「楊公が来られた」と言った。
  • 当時、広東は囲まれて久しく、将士は戦うたびに敗れ、民の出入りを禁じたので薪採りが絶え、賊を避けて来た郷民も拒んで納れず、多くが賊に殺され、民はますます愁え苦しんで賊に付いた。信民が着くと城門を開き倉を開き、木を刻んだ割符を民に給して出入りできるようにした。賊は木の楔を見て「これは楊公が給されたものだ」と言い、傷つけようとしなかった。賊を避けた者はことごとく収容して保護し、民は生き返った心地であった。
  • 信民はいよいよ武備を励まし、多方面から招き撫し、降る者は日々至った。そこで使者に檄を持たせて賊営に入らせ、恩と信を諭した。蕭養は「楊公の一言を得られれば死んでも恨みはない」と言った。日を定めて会見を請い、信民は車一台で赴き、濠を隔てて語った。賊の一党は遠くから見て喜び「まことに楊公だ」と言い、争って並び拝し、涙を落とす者もあった。賊が大きな魚を献ずると、信民は疑わずに受けた。
  • 蕭飬は降ろうとしていたが、都督の董興の大軍が到着すると賊はにわかに態度を変えた。夜、大きな星が城外に落ち、七日して信民は急病で卒した。景泰元年(1450年)三月乙卯である。軍民は集まって哭し、城中はみな白い喪服をつけた。賊も聞いて泣き「楊公が死んだ。我らに帰る道はない」と言った。
  • まもなく興が賊を平らげたが、通る村々で多く殺し掠めたので、民は天を仰いで叫び「楊公が在せば、どうして我らをこんな目に遭わせようか」と言った。訃報が届き、葬と祭を賜い、その子の玖を国子生に録した。広東の民が京に赴いて祠を建てることを請い、許された。成化年間、恭恵と諡を賜った。久しくして選人の廬従愿の請いにより、有司に年ごとその忌日に祭らせた。